
いやぁ、話題ですね。Mrs. GREEN APPLEの最新作『POPS』。私もいっちょ噛みしたらXがボヤ騒ぎになりました。それというのが、
こちらの投稿です。はっきりと「駄作」と言わせていただきました。「こんな作品で「POPS」を背負わないでほしい」、「こんなものを「POPS」だと世に広めないでほしい」とも続けています。
私としてはそれなりに思うところがあってこういう投稿をしたわけですが、そのへんは140字で無理くりまとめてもつまらないしえっちらおっちらブログで書こうかしら……なんて呑気に構えていたらこのザマですよ。遅くなりましたが、しっかり説明責任は果たさねばなりません。
↑の投稿、私の中では2つのトピックがあるんですよね。それは「『POPS』は駄作だ」という音楽的な評価と、「こんなものを「POPS」だと世に広めないでほしい」という個人的なポップス観。そしてこの一件で、私にとっての「ポップスとは何か?」を確かめる機会を得ることができました。それが大森元貴の手のひらの上だというのなら私は素直に感謝します。
ですので、説明責任を果たすのであれば、この2つについてそれぞれ語らねばなりません。まずは『POPS』のレビュー、そしてそれを踏まえての私にとってのポップスの捉え方。長くなりますがどうぞお付き合いください。
まずは作品をさらっていきましょう。早速目につくのは、その情報量の膨大さ。『シンデレラ』のオーケストレーションがその最たるものだと思います。あるいは『ア・ポステリオリ』での目まぐるしい展開や変拍子音も、本作を象徴するものの1つ。「フェーズ2」以降の大森元貴の表現技法、はしたない言葉を使えば「ドパガキ」向けなそれの延長線上にある作品であると、ひとまずは捉えてよさそうです。
そしてこの情報の過密ぶりは、実のところストリングスやら変拍子やらを持ち出すまでもなく説明できます。仮に本作をアコースティック・ギター1本のアレンジに仕立て直したとしても、本作の収録曲は揃ってハイ・カロリーに聴こえるでしょうから。
それは、大森元貴のソングライティングが備える、極めて激しく音程を移動するという特性ゆえ。ファルセットを多用することでより強調されるそれは、「フェーズ1」の時期から聴こえた彼にお決まりの手法ではありますが、ますますトゥー・マッチになっている印象を受けます。
その上で、サウンドの構築にこそ差異を感じますが(後述します)、バンド・ミュージック(≒「フェーズ1」)への回帰というのも本作では意識されています。本作における新曲としてはいの一番に登場する『共犯』、それこそ「フェーズ1」時点で原型があった『Really Really』の存在が、そうした側面を認める上での根拠です。
もう少し俯瞰的に、アルバムの全景を見渡してみるとどうでしょうか。全16曲、ラン・タイムとしては1時間を超えるサイズ感はミセスのディスコグラフィでも最大です。この点にも彼らの意図するスケールの巨大さが作用していそうですが、その構成に着目してみましょう。
最新シングル『Brand New』で開幕して以降は新曲を畳み掛ける本作ですが、『GOOD DAYS』以降のタイアップ・ソングを連打する中盤(厳密には『エピソード』という新曲を挟んではいますが)はリスナーにとって安心感があるパートかもしれません。音楽性そのものというより認知度の高さによってリスナーを作品から振り落とさない。やや力業に過ぎる感も否めませんが、そういった芸当ができるのは圧倒的なポピュラリティを持つ彼らの特権です。
また、バラード的な楽曲が続くアルバム後半において、多幸感に満ちた『Carrying Happiness』を挟み込むという構成も、アルバム作品としての配慮なのでしょう。このことを裏付けるように、アルバムとしてトータルで鑑賞することを推奨する旨のコメントを大森自身がXで発信しています。
……というのが、『POPS』に対する淡白なレビュー。ここからはより踏み込んで、なぜこの作品を「駄作」と断じたのかを説明していきたいと思います。せっかくなので上の説明と同じ順番で。いつも通り、口調も多少は砕けていきましょう。
まず、冒頭で語った情報量の膨大さというのがすごく不自然。映画や小説なんかで「説明的すぎて白ける」みたいな批評をしばしば見かけますが、同じ印象を『POPS』には受けます。その極致がやはり『シンデレラ』なんですよね。イントロのオーケストレーションは30秒にわたって続くわけですが、長すぎます。楽曲の世界観を提示したいのは理解できますよ。理解できますけど、理解できすぎて冗長になっています。
間奏の大仰なワルツ・セクションも、そこまでやらなくていいんですよ。そもそもサウンドが十分すぎるくらいゴージャスなのに、さらにスケール・アップしたら楽曲としてとっ散らかってしまうし、そもそもくどすぎる。2番サビの”せめて”のシンコペーション、これくらいで十分ドラマチックじゃないですか。過ぎたるはなお及ばざるがごとし、比較的ストレートなメロディでバランスを取ろうとしていそうではありますが、完全に失敗しています。
やたらめったらゴージャスでワルツまで持ち出して……となると、個人的に比較したくなるのがQueen。『The Millionaire Waltz』という、そのものズバリな楽曲もありますから。ただ、この曲を聴いてもらえば分かると思うんですが、展開にメリハリがあって、楽曲の起承転結が実に工夫されているでしょう?過剰の美学というのは本来、その使い所を吟味する必要があるわけです。
あるいは、ゴージャスさということであれば2026年の話題作、RAYEの『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』に触れてみてもいいかもしれません。こっちもこっちで大概華やかにすぎるんですが(オーケストラかビッグ・バンドかという違いはあれど、本作リリース当時にミセス的だという比較も見かけました)、彼女の場合前提にソウル・ミュージックへのリスペクトという素地があるので、そこで培われた方法論(歴史の中でも、彼女個人の中でも)を持ち出すことができるわけです。
ただ、ミセスには創意工夫も素地も感じられない。ただ単に、音数を増やす以外の作為や効果が聴こえてこないんですよ。しかも『シンデレラ』1曲だけなら「こういう遊び心があっても面白いよね」でよさそうなところを、のっけの『Brand New』から情報量のブースターとしてのストリングスは登場するし、それからもだいたいの楽曲でこの足し算は出てくるわけじゃないですか。この味つけの単調さというのもかなりしんどいポイントですね。
さて、『シンデレラ』とともにこのアルバムの象徴的なナンバーとしました『ア・ポステリオリ』はどうでしょう。変拍子とは言いましたがほぼ一貫して5拍子(ギター・ソロ後は3拍子ですね、しかし3拍子好きだな大森)なので比較的リズムは捉えやすいです。なので「リズムが複雑!すごい!」みたいな褒め方は流石にあり得ないんですが、それでも本作の中で最も興味深い楽曲であることは認めざるをえないかなと思います。展開のスリルも他の楽曲に比べると格段にありますしね。
しかしながら、ギター・ソロ以降失速する感は否めません。そもそもこの楽曲に据えるギター・ソロとしては淡白すぎる(ギター・ソロが退屈なのはこの曲に限らないですが)上に、ラスサビの転調がやはり極端、あざとすぎるのがなぁ……かなり凝った楽曲であることは理解できますし、『シンデレラ』と比較すれば格段によくできた曲ではありますが、本作そのものにある過剰さを解決できている楽曲、とは言えないでしょう。
で、その過剰さはそもそもソングライティング時点でかなり強烈なわけですよ。近年のJ-POP、具体的にはポストボカロ時代のそれは、確かに音高の上下や譜割りの細かさにおいて過激さを増す傾向にあるとはいえ、その中でも本作はかなり極端だと思います。それを表現できるシンガーとしての大森元貴は優秀ではありますけど、問題にしたいのは、そのメロディがアレンジ同様、「なんか音程高くて裏声もいっぱい出てきて、よくわからないけどすごい!」という、過剰さの舞台装置に終始してしまっている点です。
たださっきも書きましたが、「フェーズ1」の時点で大森元貴のソングライティングってこういうもんじゃないですか。J-ROCK的に線を引くなら、野田洋次郎~川谷絵音の系譜というか。そして当然根っこには藤原基央がいるのは”フェーズ1″の諸楽曲、とりわけ『Attitude』収録曲に明らかなわけですが、じゃあなんで今回のアルバムでこんなに滑ってしまっているのか。それは、バンド・ミュージックとしての不出来さゆえです。
「フェーズ2」以降のメンバー編成的に仕方ない部分はあるんでしょうが、ベースとドラムというアンサンブルの骨格になる部分が極めて弱いんですよね。下支えになる部分が薄いのに、その上でいいだけ派手なことをしたら悪目立ちするのは当たり前のことです。『ケセラセラ』とかでもこの傾向はあったんですけど、本作でより過剰さを突き詰めた結果、このアンバランスさも強調されてしまっています。本作では、『lulu.』のサビがその極めつけでしょう。まったくダシの効いていない、ただ味が濃いだけのラーメンをすすっているような気分になります。
このアンバランスさを逆説的に証明しているのが、『風と町』や『瞞し』、『禁じた遊び』といったミドルテンポ~バラードの存在です。こういう楽曲では上滑りした感覚がないんですよね。テンポが落ち着いている分だけメロディやアレンジの起伏が上手く薄まっていて、しっかりメロディとヴォーカルにフォーカスさせることに成功しています。いい曲ですよ。こういうバラッディアー的な才覚は見事だし、こういう曲を書けちゃうソングライティングは間違いなくハイレベル。それを活かしきれてない楽曲が多すぎるんですよね……
話を戻しまして、バンド・ミュージックとしての不出来さというのはどういうことかとなると、『共犯』を例に取るのがわかりやすいと思いますね。バンド・サウンド的なアプローチを取るからこそ、その欠陥がダイレクトに感じられてしまうナンバーではないでしょうか。個人的にはこの曲のハイハットの録音があまりにチープでずっこけそうになりましたし、せっかくベース・フレーズが面白いことをしている瞬間もあるのに、致命的に出力が弱すぎてかえって楽曲にむず痒い違和感を与えてしまっています。
それに、そもそものミックスの話をするなら、この曲のヴォーカル・ドリブンっぷりはひどいですよ。そりゃあ歌モノなんだからヴォーカル・メロディを目立つように構成するのはごく当たり前ではありますけど、Bメロ~サビにかけて、完全にバンド演奏が添え物と化してしまって、まるでカラオケ音源みたいなつまらなさを感じます。あくまで5人組のバンドだった「フェーズ1」とは全くもって質感を異にしていますし、この点においては退化していると言わざるをえない。ギターとベースとドラムで組み立ててるからバンド・サウンドでしょ?みたいな浅はかさをすら感じます。
最後にアルバムとしてのトータル・バランス。さっき書いたようにアルバムとして聴かせようという意識は確かに感じなくもないですが、それと同時に既発曲も多く、各楽曲が好き勝手に主張しているので、そこで少なくとも相殺されてしまっています。追加で、ここまでに触れてきた説明的すぎるアレンジやヴォーカルのくどさを考慮材料に入れると、アルバムとしては緊張感に欠けるものになっていると思いますね。
これはもうミセスの問題というより、アルバムでどうこうという着眼点がメインストリームのJ-Popにおいては古臭い価値観になっているということなんでしょうね。アルバム配信始まった瞬間に「0時だから『シンデレラ』をまず聴きます!」みたいなポストを見かけて私はひっくり返りましたし、アルバムが長すぎるという本作への評価に対して「長すぎるとかドパガキかよ」「アルバムなんて曲数多ければ多いだけいいだろ」みたいなコメントがついているのを見かけて、私はやはりひっくり返りました。
ただ、本人がアルバムで聴いてほしいと言っている以上、アルバムとしてどうかという評価軸は持ち込まれるべきだし、そうなるとやっぱり弱いんですよね。後半のバラード大量投入&『Carrying Happiness』にしてもさっきは擁護しましたが、そもそも曲数を絞ってしまえば済むだけの話だし、曲ができたからできただけ収録しましょうというのはスマートではありません。
それに、やはり楽曲のそれぞれがくどく、アレンジにおいても単調な華やかさが連続する以上、時間以上に聴いていて疲れるアルバムになっています。このカロリーの高さはミセスファンなら嬉しいんでしょうけど、お生憎様私はそうではないですし、名盤かどうかっていうのは好き嫌いという軸とは別の話なので。好きな人がいることを否定はしませんししてはならないですが、それはそうとアルバムとしては緊張感に欠ける冗長なものになっていると思います。
さて、今書いた「ミセスファンなら嬉しいんでしょうけど、お生憎様私はそうではないですし」という部分なんですが。これこそが「こんな作品で「POPS」を背負わないでほしい」、「こんなものを「POPS」だと世に広めないでほしい」という主張の大きな要因になってきます。
このアルバムは、たしかにわかりやすくはあるんです。わかりやすすぎるほどに。だからこれがウケるのは理解できます。ただそれって言ってしまえばジャンクフード的な手っ取り早さでしかなくて、音楽的に優れているということとは全くイコールではありません。右を見ても左を見ても上を見ても下を見てもわかりやすい、リスニング体験というよりは1時間にわたる大森元貴のオーディオ・コメンタリーのような本作は、作品に没入する余地のない、極めて押し付けがましく平面的な、音楽作品としての強度に欠けている作品だと強く感じます。
そして、そんな作品を「POPS」と銘打ち、大々的にプロモーションしてしまうことが、私には恐ろしくすらあります。例えばこれが「Mrs. GREEN APPLE」というタイトルならものすごく納得したと思うんですよ。Mrs. GREEN APPLEを求めている人にとって、本作の押し付けがましさというのは作品の世界観を余すことなく楽しめる強みなんですからね。繰り返しますが、好き嫌いというのは作品の良し悪しとは全く違うベクトルですし、それは尊重されないといけないものです。
ただ、この説明づくで、Mrs. GREEN APPLEへの肯定を前提とした音楽性が「POPS」なんだというのは、もはや暴力的ですよ。ここまで書いたような音楽的な不備を踏まえて、それでも表層的に華やかであれば、そしてそれを手取り足取り提示してあげれば、それは少なくとも今日的に「POPS」たり得るのだということになってしまうのですから。「ここまでわかりやすければいいんでしょ?」というリスナーを見透かしたような態度に、そしてそれが承認されてしまうことに、私は大きな違和感を覚えます。少なくとも、私の信じるポップスはそんなものじゃない。
じゃあお前の言うポップスってなんなんだよ?、これを説明するための根拠として、私は2つの作品を持ち出したいと思います。ミセスの”POPS”がポップスを背負うに足るものではないと言った以上、まずはポップスを背負うに足る作品を提示しないといけませんね。そしてそれは私にとっては当たり前に、Michael Jacksonの『Thriller』ということになります。
別にこれは、『Thriller』が世界一売れたアルバムだから、というわけではありません。仮に何かの間違いで『Thriller』が4枚くらいしか売れなかったとしても、断じて本作はポップスそのものです。だってそうでしょう、売上がポップスか否かの唯一の指標ならば、『Thriller』はリリース初日においてはポップスではなかったことになる。そういう事実ベースの、結果論的なポップスというものも存在しているんでしょうけど、そうではない、音楽そのものに内在するポップスらしさを定義する指標もやはり存在しているはずです。
そして、『Thriller』については、想定されるリスナーの射程を限りなく広げていることがそのポップス性最大の根拠だと考えています。R&Bというそれまでの黒人中心の音楽性を踏まえて、ロックという白人中心の音楽性にも接近し、あらゆる人種の音楽ファンに届く1枚として本作は制作されました。10年前まではモータウンのチャイルド・スターだった彼が人種や音楽性の垣根を超えるという恐るべきチャレンジ、それがアルバムとしての間口の広さ、音楽として保持するポップス性を生み出し、そして史上最大のセールスという結果論的なポップス性を勝ち取った。こうした順序であるはずなのです。
ミセスの『POPS』は、確かに紛れもなく結果論的なポップスではあるでしょう。リリース初週にしてハーフミリオンという、近年ではあり得ないチャート・アクションを示していることがその何よりの証拠です。ただ、徹頭徹尾ミセス的で、そのミセスらしさを強調し、既存のファン(あるいは潜在的なファン)に向かって懇切丁寧にそのことを表明するという手法を取り入れている以上、あまりに間口が狭すぎる。それは私が『Thriller』に感じるような、ユニバーサルな音楽としてのポップスとは呼べるものではない。そう私は考えます。
ただ、現代のJ-Popの話題に、40年以上前のアメリカの作品、それも未来永劫ポピュラー音楽の金字塔であり続けるであろう1枚を持ち出すのはちょっとぎこちないですよね。私の信じるポップスを端的に説明できはするけれど、我ながらどうにも味が悪い。ということでもう1枚、私の思うポップスらしい作品は、UNISON SQUARE GARDENの『CIDER ROAD』です。
恐ろしくざっくりとした仕分けをすると、ミセスとUNISON SQUARE GARDENは同じ畑だとは思うんです。J-ROCKの分野から出発しているし、その細かい譜割りだったりハイトーンのヴォーカルだったり、音楽性に近いところがありもしますからね。そして『CIDER ROAD』と『POPS』は、バンドの、そしてソングライターのイズムを徹底しているという点でも共通しています。
その上で、作者の気持ちを考察するという程度の低い国語の文章問題めいたことをする趣味はあまりないのですが、『POPS』の説明口調な音楽性、まやかしめいた装飾、そして直接的すぎる歌詞表現を聴けば聴くほど、「ここまでわかりやすければいいんでしょ?」というリスナーを見透かしたような態度と同時に、「ここまですれば伝わるだろう」という、大森元貴の妥協を感じてしまいもするのです。
そのことが私は腹立たしくもあり悲しくもあるんですが、『CIDER ROAD』にはそれがない。その代わりに、どこまでも自分勝手に好きなことを突き詰め、リスナーのことなんて二の次で、それでも「これを聴いたJ-Popの偉い人が土下座しに来ないかな」とわりあい本気で語ってしまう、そんな田淵智也の意地があります。
もっとも、これは音楽として優れているかどうかとは全く別軸ですし、さっき書いたような”Thriller”的なポップスとも全く別軸です。作り手の矜持という、極めてエモーショナルで主観ベースの話題にすぎない。私の中に、ユニバーサルな音楽という『Thriller』的ポップス(聴き手にとってポップスか否か)と、その人の信じるポップスを遂行する『CIDER ROAD』的ポップス(作り手にとってポップスか否か)という、2軸があるんだろうと思います。
「POPS」を背負うなら『Thriller』くらいユニバーサルであってほしいし、「POPS」を名乗るなら『CIDER ROAD』くらい自分勝手であってほしい。そして残念ながら、『POPS』という作品はそのどちらを満たしてもいませんでした。少なくとも私にとってはね。
……まあ、ここまで絶賛の嵐でぶっちぎった話題作である以上、『POPS』は駄作だという評価も、こんなものは「ポップス」じゃないという主張も、マイノリティなんだろうなとは気付かされました。曲げるつもりも謝るつもりもないですけどね。ここまで長々と書いてきましたが、あのポストに対するある程度の説明になっていればよいなと思います。では、今回はこのあたりで。

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