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Station To Station/David Bowie (1976)

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デヴィッド・ボウイの作品のうち、どの作品をはじめにレビューしようかというのは悩ましい問題でしたが、素直に一番聴き返すことの多い1枚にしてみました。今回レビューするのは1975年発表の『ステーション・トゥ・ステーション』です。

この作品の近年における再評価は目覚ましいものがありますよね。少し前まではボウイの傑作というと『ジギー・スターダスト』か『ハンキー・ドリー』、それか「ベルリン3部作」の最初の2枚というのが通説でしたけど、最近ではこれらの中に入ることも少なくないように思います。ボウイ自身がフェイバリットに挙げたことも理由としては大きいのでしょうけど、他にも理由はあるような気がしています。それに関してはまた後ほど。

さて、『ステーション・トゥ・ステーション』に限らずですが、ボウイの作品というのはもう毎回毎回異なった表情を見せてくるので、その背景にあるボウイの関心や音楽トレンドを理解することが作品の理解に大きく影響してきます。まずはその辺りから。

本作発表まで、ボウイが向かおうとしていた音楽性はズバリ、ソウル・ミュージックでした。アメリカ・ツアーで感化されたそうですが、如何にして白人がブラックネスに接近できるのかということにチャレンジしようとしたんですね。この試みってある意味でポピュラー音楽における非ブラック・アメリカンの至上命題だと思うんですが、そこに彼は目をつけ『ヤング・アメリカンズ』を発表します。

じゃあその次作に当たるこの作品でも同じ音楽性なのかというと、これが少し違う。単にそれだけではないんですね。というのも、ソウル路線というのは結構早くに見切りをつけ、1977年から彼はベルリンに渡りクラウトロックやアンビエントといった電子音楽へと舵を切ります。その時期の作品群を総称して「ベルリン3部作」と呼ぶんですが、その予兆みたいなものも本作には感じられるんですね。すなわち、彼の重要な2つのフェイズにおける過渡期の作品なんです。

こう書くとまるでどっちつかずの半端な印象を抱かせかねないですが、決してそんなことはないです。むしろ、その双方の魅力を見事に融合させ1つの音楽として完成させている。つまり、ソウル音楽の受容をより深めつつも、ベルリン期に見せたヨーロピアンな感性でもってそれを表現しているんです。過渡期にしてその両極の本質を描き切っているんですね。なかなか言葉では伝えにくい部分かとは思いますので、実際に作品を分析してきましょう。

まずは構成。全6曲とかなり思い切った楽曲数です。それこそソウルの方法論にのっとるのであれば、3分ほどの楽曲をたくさん収録するというのが普通だと思いますが、そうではないんです。むしろプログレッシヴ・ロックを思わせるような大作志向すら感じますね。この辺からもボウイがクラウトロックに視線を向けていたことは納得がいきます。後にも先にも、それこそどっぷりと電子音楽に浸かった「ベルリン3部作」ですらこういった大胆な構成はなかったですから。

では肝心の内容はというと、これがまた独特で。少なくともグラム期の煌びやかなロックではないですし、電子音楽の無機質なサウンドでもない。この作品の色彩感を表現するならば、モダンでシック、それでいてミステリアス、こういった感じでしょう。音楽的にはやはりソウルからの影響は軸としてあるんですが、アメリカ的なスマートさみたいなものよりは、西洋的な捻くれたセンスを感じさせます。

たとえばアルバムのオープニングを飾るタイトル曲『ステーション・トゥ・ステーション』。10分を超える大曲ですが、イントロのノイズはあからさまにクラフトワークやタンジェリン・ドリームを彷彿とさせますね。そこから怪しげなピアノ・リフが展開され、一気にブラック・ミュージック調になっていきますが、ここまで不穏なムードを引きずって黒いノリを演出する例って他にないですよ。前作ではかなりまっすぐソウルに挑戦した印象がありますが、もうこの段階でボウイは次のステージに立っています。

Station to Station (2016 Remaster)

楽曲としてはイントロからずっとピアノが印象的で、跳ねたリズム感もあってやっぱりブラック・ミュージック的ではあるんですけど、不思議なことに、グルーヴみたいなものをそれほど感じないんです。どこか無機質というか、それこそ「ソウル」を感じない。ボウイほどのアーティストですから当然意図的なものですが、ではその意図とは何なのか。

それはきっと、ヨーロッパ的価値観でソウルを表現するという目標の1つの答えなんでしょう。つまり、グルーヴの部分で真に黒人のフィーリングは理解できない、ならばそれを排除し、白人の感性でソウルを再構築して描出する、という。この試みは作品全体で一貫していて、どの楽曲もソウルっぽい、ソウルっぽいのに踊れないという奇妙な音楽性なんです。

本作とブラック・ミュージックの奇妙な関係性に関してはここまでに触れた通りですが、もう一つ、クラウトロックからの文脈でこの作品を捉えた時に見えてくるのは「反復性」というテーマです。さっきも書いたように本作収録の楽曲は大作のものもあるんですが、じゃあそれらが正にプログレのような組曲だったり変拍子を多用した複雑なものかと聞かれればそういう訳ではないんです。あくまで音楽的にはソウルをやろうとしているんですから、そういったアプローチはむしろご法度。では何故楽曲が長くなるのか、それは執拗なまでに同じセクションを反復する傾向があるからです。

『ステイ』という楽曲を取り上げてみましょうか。6分ほどとそれなりに長く、ギターがフィーチャーされた本作では最もロック的な楽曲です。ただ楽曲の展開を追っていくとメロディに関してパターンは2つしか登場しないんですね。じゃあ演奏はというと、基本的にはカッティング・リフをメインにした起伏の少ないものになっています。終盤にギター・ソロが登場するにはしますが、いわゆるロック的な盛り上がりを見せるものではなくて、延々と続くテーマに表情をつけるための化粧のようなアプローチです。こういう部分は、この楽曲のイメージからファンクからの影響と見てもいいとは思うんですけど、それよりはミニマルな反復性を特徴の1つとしたクラウトロックの美意識との接続じゃないかと私は考えています。

Stay (2016 Remaster)

冒頭でこの作品は再評価の機運が高まっている、という話を出しました。昨年改訂されたローリング・ストーン誌の名盤リストでは、ボウイの全作品中第2位のポジションでしたからね。個人間の好みの問題こそあれど、ある程度権威あるメディアのリストでこういう価値観は今までなかったと思います。では何故本作が再評価されるのか、それはブラック・ミュージックの評価の上昇もありますが、何より本作が彼のカタログ中最も「デヴィッド・ボウイ」らしい作品だから。これに尽きるのではないかと。

本作はソウルを白人が如何に解釈すべきかという部分から出発していますが、こういう既存の音楽を「デヴィッド・ボウイの音楽」に書き換えてしまうというのが彼の最大の才能だと個人的に思っていて。『ステーション・トゥ・ステーション』は「ボウイ流ソウル」ではなく、「ソウル流ボウイ」なんです。あくまでデヴィッド・ボウイという、稀代のカリスマ、妖しげなアーティストの存在感が中心となっている。

思えばグラム・ロックでこそ彼は時代の先端にいましたけど、それ以降の彼の活動って新たな領域を開拓するというよりは様々な音楽に対して彼自身をアップデートしていく作業だった気がするんです。そういう、彼のキャリアの大部分を占めるアプローチが確立されたのもこの作品ではないかと思っています。最終曲の『野性の息吹き』はニーナ・シモンズのカバーですけど、もうオリジナルとしか思えないボウイ・スタイルですからね。

Wild Is the Wind (2016 Remaster)

そして、ソウルというポピュラー音楽の核となるジャンルを受容したということは、どの作品よりも本作が本質的だということでもあると思うんです。彼は火星から来たバイセクシャルのロック・スターではないし、ベルリンに隠遁した廃人でもない。デヴィッド・ボウイという個人としての音楽が、この作品には内包されているような気がします。

デヴィッド・ボウイは間違いなくロックの歴史における偉人ですし、洋楽を聴くなら押さえておきたいアーティストですが、活動がもうあっちこっちいくせいでなかなか追いにくいのも事実としてあります。ベスト盤で入る訳にもいかないタイプのアーティストですからね。なかなか手が出せない、どこから聴いていいか分からない、そういう方がいれば、邪道かもしれませんがこの作品をボウイの入門とするのも案外面白いかもしれないですね。少なくともこの作品を聴けばボウイの玉虫色の才能の、かなりの部分は網羅できると思います。

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