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1980年代の洋楽史を徹底解説!§4. LIVE AID〜1億人の飢餓を救う、あまりに眩い「光」〜

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引き続き、1980年代洋楽史解説を進めていきます。バックナンバー、及び過去シリーズとなる1960年代編、1970年代編は↓よりどうぞ。

さて、このシリーズにおいて私は1980年代の諸動向を「光」「陰」の2つに大別し、「光」にフォーカスして議論を進行してきました。今回はある意味で、その「光」を締めくくる重要なセクションとなります。扱うトピックは、1980年代、あるいはポピュラー音楽の通史における最大のイベント、「LIVE AID」までの道程です。

ここで予め、本稿は二部構成を取ることをお伝えしておきましょう。前半では「LIVE AID」に至るまでの動きをドキュメンタリー的に鳥瞰し、そして後半でその一連のムーヴメントに如何なる意味があったのかを解説する、そういった形式です。特に後半は§2.に続きやや厳めしい内容になるかとは思いますが、着目すべき価値が大いにある内容ですのでご寛恕ください。それでは参りましょう。

バンド・エイドの発足

§0.で1980年代を覆う社会状況について言及した際にも僅かに触れましたが、この時代にはアメリカ、西欧諸国、日本といった資本主義圏が三極構造を取り、経済的に大いに繁栄します。それゆえに、これまで本シリーズで語った「光」が存在し得たとも解釈できるでしょう。人々のメンタリティが荒廃していては、その「光」はただうざったいものにしか映らないでしょうから。

しかしこの栄華は、決して全世界的なものではありません。綻びを見せ始めた共産圏国家もそうですし、アジアや中南米、そしてアフリカといったいわゆる「第三世界」でも、長らく貧困や政情不安が蔓延っている状況です。その中でもとりわけ甚大な被害を生んだのが、アフリカはエチオピアでの飢饉。

1984年に発生し、およそ100万人ともされる被害者を出したこの飢饉は、単なる天災ではありませんでした。深刻な食糧不足をエチオピア政府は黙殺し、国連や諸外国からの支援物資が国内に行き渡ることはありませんでしたし、またそうした状況を国際社会は半ば黙認していたのです。世界の無関心の中で、エチオピアの人々は忍び寄る飢えの苦しみと死の恐怖に打ち震える。

こうした凄惨な状況に、ある人物が声を上げました。その人物の名はボブ・ゲルドフブームタウン・ラッツというバンドのリード・シンガーとして活動していた彼ですが、おそらく今日においてブームタウン・ラッツでの彼のキャリアはほとんど知られていないでしょう。しかしゲルドフの存在は、本稿において極めて重要な意義を持つことになります。

ボブ・ゲルドフ

ゲルドフ、そしてウルトラヴォックスのヴォーカリストであるミッジ・ユーロは、音楽によってこの惨状に一石を投じる手段を講じます。そうして彼らが発起人となって生まれたプロジェクトが「バンド・エイド」。本セクションの起点となるイベントです。

この2人によって書き下ろされた楽曲をチャリティ・シングルとしてリリースし、エチオピアの現状を周知するとともにシングルの収益をエチオピア支援に充てるというこの計画で、彼らは多くのイギリスのミュージシャンに参加を呼びかけます。そうして集った面々は、U2のボノジョージ・マイケルカルチャー・クラブデュラン・デュランポール・ウェラー……1980年代のUKロック/ポップスを牽引した人物たち。

『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』と銘打たれたこのシングルは、豪華アーティストが一堂に会した話題性もあって当時の全英シングル・セールス記録を塗り替える大ヒットを記録します。そこにはイギリス音楽界の重鎮ではなく、あえて気鋭のアーティストを数多く起用したことでより強い共感を生んだ作用もあったでしょう。

Band Aid – Do They Know Its Christmas
『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』はエルトン・ジョンがダイアナ妃の追悼として再リリースした『キャンドル・イン・ザ・ウィンド』に破られるまで、歴代全英シングル売上記録の首位に君臨していました。「彼らは今日がクリスマスだと知っているのだろうか」という歌詞は西欧人の独善だと批判されることもありますが、彼らの等身大のメッセージが刻まれたからこその紛糾でしょう。

アメリカの連帯、そしてUSAフォー・アフリカ

「バンド・エイド」、そして『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』が社会に投げかけた波紋は、大西洋を隔てた北米大陸まで瞬く間に伝播します。最初に反応を示したのはハリー・べラフォンテ『バナナ・ボート』のヒットで知られ、また公民権運動やベトナム反戦運動にも深く関与した人物です。

べラフォンテは「アメリカ版バンド・エイド」の結成を発案し、ライオネル・リッチーに連帯を求めます。そこへマイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダーといったモータウンの同志が共鳴し、そして当時ジャクソンのプロデューサーとして強固なタッグ体制を構築していたクインシー・ジョーンズも参加。「USAフォー・アフリカ」プロジェクトが始動します。

「USAフォー・アフリカ」に参加した顔ぶれは、ともすると原案である「バンド・エイド」をも凌ぐ華々しさでした。レイ・チャールズボブ・ディランダイアナ・ロスブルース・スプリングスティーンシンディ・ローパー……アメリカ音楽界のレジェンドからリアルタイムでヒットを飛ばす人気アーティストまで、総勢45人のシンガーが一夜にして集結しました。

こうして制作された楽曲、『ウィ・アー・ザ・ワールド』(ジャクソンとリッチーの共作)は、やはり大きな反響を呼びます。全米1位を当然のように獲得し、「バンド・エイド」とともに一大ムーヴメントを巻き起こすのです。そしてそのムーヴメントは、1つの歴史的イベントとして結実します。

U.S.A. For Africa – We Are the World
1980年代の洋楽ポップスを象徴する名曲『ウィ・アー・ザ・ワールド』。スタジオの扉には「ドアの前でエゴを捨てろ」という注意書きがされ、45人のスターたちに報酬は支払われませんでした。個性豊かなシンガーが次々に歌い繋ぐ様子は、アメリカという国家が如何に豊かな音楽的土壌を持つかを知らしめるかのよう。

LIVE AID

ゲルドフは英米両国でのこの動きを見て、その集大成としてあるイベントを企画します。それすなわち、全世界衛星中継による史上最大のチャリティ・コンサート。

このいまだかつてないスケールの挑戦はあまりに無謀に思われましたが、「バンド・エイド」と「USAフォー・アフリカ」が生み出したチャリティへの熱意の高揚が実現を可能にします。こうして1985年7月13日、「1億人の飢餓を救う」というスローガンの元で、20世紀最大の音楽イベント「LIVE AID」が開催されました。

ロンドンのウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィアのJFKスタジアムでの12時間以上に及ぶ同時開催となった「LIVE AID」は、それぞれの会場で7万2千人10万人という破格の動員を記録。加えて、共産圏も含む全130ヵ国で放送されたライブ映像の聴取者も含めれば、「LIVE AID」の目撃者は全世界で19億人と推定されています。言うまでもなく、これは史上最大の観客数。

ザ・フーとレッド・ツェッペリンが再結成を果たし、クイーンが音楽史上最高のライヴ・パフォーマンスを披露し、フィル・コリンズがコンコルドでロンドンからフィラデルフィアまで音速で駆けつける。その一方で、ボノは規約を破って観客をステージに連れ上げ、ポール・マッカートニーのステージではマイクの音声が入らず、フィラデルフィア会場のフィナーレを飾った『ウィ・アー・ザ・ワールド』の大合唱は無秩序なマイクの奪い合いに。数多くの伝説とトラブルを残して、「LIVE AID」は大盛況のうちに幕を閉じました。

Queen – We Are The Champions (Live Aid 1985)
1985年当時、クイーンはメンバー間の不和から解散の危機に瀕していました。その中での彼らのパフォーマンスは、紛れもなく「LIVE AID」におけるハイライトに。バックヤードに戻ってきたクイーンに対し、出演を控えていたエルトン・ジョンが「お前らに食われた!」と冗談交じりに責め立てたという逸話も残されています。

「LIVE AID」が映し出す1980年代

ポピュラー音楽の影響力に対する是認

さて、ここからは予告通り、「LIVE AID」及びこの一連のチャリティ・ムーヴメントの意義について考察していきましょう。そしてその奥にある、1980年代の「光」そのものについても。

この動向から読み取れる文脈として、ポピュラー音楽の発言権の伸張というものが挙げられるかと思います。このトピックを考えるうえで是非とも対比させたいのが、1969年に開催されたウッドストック・フェスティバル。「LIVE AID」と並び文化史上極めて重要な意味を持つロック・フェスティバルですが、この2つを比較することでその性質の差異というのが如実に表れます。

まず両者に共通するのが、単なる音楽イベントを越えた社会的な眼差しがそこに存在していたという点。「LIVE AID」は前述の通りチャリティとしての企画ですし、ウッドストックに関してはヒッピー・ムーヴメントの祝祭という側面を多分に含んでいます。アーティストの側はともかく、ウッドストックに参加した観客の多くはそこにラブ&ピースの具象を望んでいたでしょうから。

しかし決定的にこの2つを分かつのが、その規模大衆からの承認です。ウッドストックは40万人を動員し、単純な会場の観客数では「LIVE AID」を大きく上回っているものの、あくまで「カウンター・カルチャーの祭典」。出演アーティストもヒット・チャートの常連というよりは時代の最先端に立つヒップなラインナップですし、平和裡に開催されたとはいえドラッグ服用フリー・セックスが公然となされた会場のムードも、アンダーグラウンドな熱気に包まれていたと言えるでしょう。事実、現地住民たちは得体の知れぬヒッピーが大挙して押し寄せるこのイベントの開催に難色を示したとされています。

では「LIVE AID」はどうか。先に触れた通り、全世界でのTV放映の聴取者を含めばその規模はウッドストックの実に300倍にのぼりますし、参加アーティストは世界的ヒットを飛ばすスターが目白押しです。さらにはロンドン会場には時の皇太子夫妻であるチャールズ3世ダイアナ妃も出席し、国家として「LIVE AID」の意義を支援する姿勢を示しています。(当時の英首相サッチャーはエチオピア飢饉への物資支援に後ろ向きだったため不参加ですが)

この差異はどこから生じたのでしょう。それは偏に、ポピュラー音楽の存在感の拡大によるものです。1970年代史解説でも触れた「ポピュラー音楽の商業化」がさらに進み、MTVによってより多くの人々に届けられることで、ポピュラー音楽は大衆文化の最右翼の地位を確立するまでになります。

かつてエルヴィス・プレスリーは「不良の音楽」のレッテルを貼られ、レイ・チャールズは神聖なるゴスペルにセックスを持ち込んだ不埒者として同朋である黒人からも非難され、現象的な人気を博したザ・ビートルズですら一方ではレコードを燃やされるほどの強い反発を受けていました。これはすべて、ポピュラー音楽という「新奇な文化」を受け入れるだけの準備が大衆の側になかったがため。しかし1980年代に至れば、人々はポピュラー音楽の影響力を肯定的に認めることができるまでになっているのです。それはやはり、ポジティヴな「光」の眩さがあったからこそでしょう。

その好例が、ボブ・ゲルドフが一連のチャリティ・プロジェクトの功労者としてノーベル平和賞にノミネートされた事実。一介のミュージシャンであるところの彼が、世界平和に貢献した人物として承認されたのです。仮に「LIVE AID」が1970年代に開催されていたとしても、こうした結果は残さなかったでしょう。その点で、やはりこの動向は1980年代に特有の性格があると私は考えます。

「光」が生み出す「陰」

ここまで私は「LIVE AID」に連なる一連のムーヴメント、そしてそれが象徴する1980年代の「光」について、注意を適宜加えつつも前提として肯定的に論じてきました。しかし、ここで視点を変えてみましょう。

つまりはこうです。「1億人の飢餓を救う」という「LIVE AID」のお題目は、なるほど確かに崇高な理念です。ですが、それがたとえ1億人を救ったとして、チャリティではなく音楽そのものに救いを求めるただ1人の人間に手を差し伸べるものになり得たでしょうか?あるいはより端的にこう問いかけましょう。1980年代の「光」は、すべての音楽ファンを分け隔てなく明るく照らしたでしょうか?

私の答えはノーです。「彼らはクリスマスだと知っているのか?」という投げかけも、「僕らは世界とともにある」という宣誓も、それは複数形の表現。これは1980年代のポップスがこれまでになく大衆的なものであったことを思えば自然と言えるでしょう。しかしその巨大な射程に取り残された人々も必ずいたはずなのです。「光」があまりに眩しいからこそ生まれる、濃厚な「陰」の中にいた人々が。

この二項対立は、何も1980年代に固有の現象ではありません。1960年代初頭の人畜無害なポップスの流行への反発としてザ・ビートルズを筆頭にしたロック・バンドが支持されたという事実や、1970年代のロンドンに吹き荒れたパンクの旋風、これらにも同様の性格がありますから。ですが繰り返しになりますが、1980年代のポピュラー音楽はあまりに大衆的。それゆえに当然、その分断も大きなものになります。この分断への本格的なカウンターは、1990年代に彗星の如く現れたあのバンドを待たねばなりません。

しかし、その「陰」もまた確かな広がりを見せます。それはたとえばポストパンクであり、たとえば黎明期のインディー・ロックオルタナティヴ・ロック。あるいはより社会的な分断にあったアフリカン・アメリカンによる新たな音楽フォーマットという意味で、ヒップホップをここに加えても差し支えないでしょう。

以降のセクションでそれぞれ取り上げることになるこうした音楽性は、華々しいポップスの大ヒットに比べれば規模は小さいもののその勢力圏を拡大していきます。ここには「光」に照らされなかった、声なき声の支持があったことは疑いようもありません。ポピュラー音楽の原脈たるブルースが歌った個人的な悲哀、そこに連なる単数形の表現を求めた人々に、この「陰」は形式こそ違えど手を差し伸べたのですから。

そしてこの「陰」は、むしろ1990年代以降その存在感を強く主張するようになります。今日のポピュラー音楽の様相を思えば、この「陰」こそを重く論じなければならないほどに。これまでに見てきたトピックだけで、1980年代を「洋楽ポップスの黄金時代」と早合点してはこの事実をみすみす見落とすことになってしまいます。「光」についてこれまで大々的に語ったからこそ、同時にその集大成であるこのタイミングで「陰」に対して注意を向ける必要があるのです。

まとめ

今回の解説内容をまとめておきましょう。

  • エチオピアで発生した飢饉への支援チャリティとして、ボブ・ゲルドフによって「バンド・エイド」が発足。U『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』の大ヒットで成功を収める
  • 「バンド・エイド」の成功を受け、アメリカでも同様のプロジェクトが始動。ハリー・べラフォンテの呼びかけに応じたライオネル・リッチーやマイケル・ジャクソンが中心となって結成された「USAフォー・アフリカ」が『ウィ・アー・ザ・ワールド』をリリースし、チャリティ・ムーヴメントが英米両国で巻き起こる
  • 「バンド・エイド」と「USAフォー・アフリカ」の成功を受け、チャリティ・イベント「LIVE AID」の開催をゲルドフが立案。英米同時開催、全世界衛星中継による音楽史上最大規模のイベントとして結実し、成功裡に閉幕
  • この一連の動向は、1980年代におけるポピュラー音楽の地位の向上とその影響力への承認を意味するものであり、一方でこのムーヴメントに象徴されるポピュラー音楽の大衆化はアンダーグラウンドな音楽の醸成を促すものでもあった

本稿は音楽ジャンルや特定アーティストに言及するものではなかったので、読む方によっては冗長な内容に感じてしまわれたかと思います。しかし本セクションは、1980年代洋楽史を語るうえで欠かすことのできないものとなっています。「光」と「陰」の時代と定義した1980年代の両義性を見つめるために、そしてこれまでの「光」に対する解説から「陰」への解説へと、シームレスに移行するために。

さて、とはいえ実のところ、次回から本格的に「陰」へとテーマを移すということもありません。もう少し段階的に、より詳細に言えば「光」でもあり「陰」でもある、そうした音楽性に関しての議論を挟み込む予定です。未だに支持の厚い分野への解説ですので、適切で慎重な解説となるよう心がけたいと思います。それでは、また次回お会いしましょう。

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