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ピエールが本気で選ぶ、邦楽史上最も偉大なアルバム・ランキングTOP100

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第60〜51位

第60位『TEENAGER』/フジファブリック (2008)

2000年代に青春を歌ったバンドは数あれど、フジファブリックほどに捻くれたスタイルでその輝きを表現したバンドは他にいません。志村正彦が自身の若き日を追憶し、そのノスタルジーを閉じ込めた最高傑作がこの『TEENAGER』。

ニュー・ウェイヴ的、あるいはサイケデリック・ロック的でもある奇妙なアプローチに、サーフ・ロックの疾走感。そうした一見ミス・マッチにも思える音楽性を混沌としながらもまとめ上げる手腕は本作に最も顕著。その中に、今やスタンダードと化した『若者のすべて』のような誠実な名曲をも織り交ぜる大胆さも痛快です。

所謂「ロキノン系」にあって、この作品にも刻まれた彼らの個性は異質とすら言えるのかもしれません。しかしそれゆえにその印象は強烈で、真夏のピークが去るたびに、我々はこの作品の瑞々しさを思い出すことになるのです。

第59位『JAPANESE GIRL』/矢野顕子 (1976)

洋楽を邦楽的に翻訳するという試みは、矢野顕子も属した所謂はっぴいえんど人脈に共通するものです。その中でも、リトル・フィートの演奏で津軽民謡を歌うという離れ業をなした『JAPANESE GIRL』は特筆すべき一例でしょう。

前述の通りリトル・フィートがA面の全楽曲で演奏を務め、翻ってB面ではティン・パン・アレーやあがた森魚の関係者といった日本のアーティストを招聘。対照的なコンセプトのもと、矢野のロック的な歯切れと土着的なエッセンスが同居した作曲が響き渡ることで、異国情緒溢れる日本音楽という独自のテクスチャが生まれています。

あがたの『日本少年』という作品への返答として『JAPANESE GIRL』と銘打たれた本作ではありますが、そこには日本の少女たる矢野の誇りがあることはサウンドからも伝わってきます。ニュー・ミュージックの命題を、最も個性的に達成した興味深い1枚です。

第58位『BLUE BLOOD』/X (1989)

「ヴィジュアル系」の祖として、社会現象を巻き起こした巨大なカリスマ・バンドとして、Xの存在は極めてレジェンダリーと言えます。彼らのメジャー1st『BLUE BLOOD』は、その伝説に恥じぬ日本最大のスタジアム・ロックの名盤の1つ。

アグレッシヴな演奏と突き抜けるようなハイ・トーン・ヴォーカルはヘヴィ・メタルの様式美にのっとった格好ですが、一方でオーケストラルな壮大さ、あるいはバラード群に象徴されるメロディ・センスのポップネスがメタルの触れにくさを排除することに成功し、J-Pop的とも言える大衆性を本作に与えています。

奇抜なファッションや過激なライヴ・パフォーマンスだけでXは成功したのではありません。今や国際的にも支持を集める彼らですが、その最大の根拠たる音楽的な充実とバンドとしての完成度が破壊的に表現された1枚です。

第57位『Pineapple』/松田聖子 (1982)

女性アイドルの完成形とすら言える松田聖子ですが、邦楽通史における名盤という切り口で彼女の名前が登場することは稀と言っていいでしょう。この『Pineapple』の瑞々しいポップネスが忘れ去られることは、あまりに大きな損失だというのに。

全楽曲の作詞はあの松本隆、作曲に参加したのは呉田軽穂こと松任谷由実にチューリップの財津和夫。歌謡の世界の職業作曲家ではなく、本作に集結したのはニュー・ミュージックの才人たちです。そうして拵えられた名曲の数々をあざといほどに可愛らしく表現する、松田聖子の歌唱力とアイドル性もまったく見事。

吉田拓郎の『襟裳岬』に端を発する、ニュー・ミュージックの歌謡への接近。この試みの最良の結果の1つこそが本作であり、それらを難なく実現させてみせたディーヴァとしての松田聖子の存在感は、本来巨大であって然るべきなのです。

第56位『センチメンタル通り』/はちみつぱい (1973)

あがた森魚のバック・バンドを前身に、そして解散後はムーンライダーズへと遷移していったはちみつぱい。しかし彼らの唯一の作品『センチメンタル通り』はそうした過渡期的なものでなく、日本語ロックにおける重要作品として確かな魅力を持つ名盤です。

はっぴいえんどを和製バッファロー・スプリングフィールドとするならば、さしずめはちみつぱいは和製ザ・バンド。大所帯によるバンド・アンサンブルはおおらかで穏やか、アメリカンなものである一方、その中で鈴木慶一が歌い上げる情景は、「センチメンタル通り」という架空の街並みの生活の匂いを確かに宿した日本的なものです。

あがた森魚との関係性から、フォークとして紹介されることもままあるこの作品。しかしながらあの向井秀徳も17歳の時に練り歩いたと夢想する『センチメンタル通り』は、紛れもなく日本人によるロック・スピリットの原点の1つなのでしょう。

第55位『満足できるかな』/遠藤賢司 (1971)

ボブ・ディランに触発され、フォーク・シンガーを志した遠藤賢司。巷が社会的なフォーク・ソングに沸く中、どこまでも四畳半の心象に徹底した彼の最高傑作『満足できるかな』は、偶然か必然かロック化したディランのある種の不誠実さに似ているようです。

作中に登場するのは曖昧模糊な「君」か愛猫ばかり、一貫して暗澹とした一人称で描かれる本作の筆致においては、三島由紀夫の自決すら日常への冷ややかな視点をもって描写されます。この社会との断絶、あくまで自己の世界に閉じこもるその詩作は、いきおい社会と結びつくあまり普遍性を失う他のフォークと一線を画しています。

バックにはっぴいえんどの面々を従え、ロック的文脈においても語り得るという点でも1960年代中期のディランを彷彿とさせる本作。しかしディラン以上に自己中心的なこの作品は、より生々しくピュアな美しさを今日まで語り継いでいます。

第54位『GUYS』/CHAGE & ASKA (1992)

空前のCDバブルに沸く1990年代J-Pop、その中で小室哲哉陣営やビーイング系とともに大成功を収めたCHAGE & ASKA。彼らもまた批評において冷遇されがちですが、両名が最高傑作と認める15th『GUYS』の完成度はあまりに非凡です。

2人の天晴れな歌唱力のコンビネーションが織り成す最高品質のJ-Pop、それだけでも本作の価値は十二分です。そのうえでおそろしく洗練されたアーバンな佇まい、ふくよかであって柔らかなサウンド、哀愁を携えたASKAの作曲能力、そのすべてが本作の強度を高め、また当時のJ-Popがときに蔑ろにした普遍性を発揮しています。

そして1時間を越えるラン・タイムや類い稀なるポップ・センスの応酬があってなお、アルバムとして決して冗長にならぬ流麗さすら纏った本作。彼らの作品がサブスクリプションに登場したことを皮切りに、J-Pop黄金期の素晴らしい遺産として記憶されてゆくはずです。

(9/12時点でサブスクリプション未解禁ですが、CHAGE&ASKAの全作品解禁が決定していますので配信され次第リンクを追加予定です)

第53位『Kocorono』/bloodthirsty butchers (1996)

向井秀徳やフガジといった、国内外のアーティストからリスペクトを集めるバンド、bloodthirsty butchers。彼らの最高傑作にして、国産オルタナティヴ・ロックの白眉と言える名盤がメジャー2ndにあたるこの『kocorono』です。

ダイナソーJr.、あるいはソニック・ユースといったUSギター・オルタナティヴを原型としたそのサウンドはあまりに歪でカオティック。とりわけ独創的なチューニングから繰り出されるノイジーなギターは極めてアイコニックで、静と動を忙しなく行き交いながら歌われる吉村秀樹のか細い哀愁もあって独特の危うさを演出します。

70分を超える大作ながら、そこに充満する破滅的な空気はこの作品に刹那的な印象を与えすらします。サウンド、世界観ともに決して誰にも模倣し得ない、真の意味でオルタナティヴなギター・アルバムの1つです。

(サブスクリプション未解禁)

第52位『SUNSHOWER』/大貫妙子 (1977)

シュガー・ベイブでの活動や前作『Grey Skies』で、既に大貫妙子の淑やかな作曲は十分に示されています。しかしこの2nd『SUNSHOWER』でその才能はますます広がり、今日においてシティ・ポップ黎明期の傑作として高く評価されています。

本作で特筆すべきは、AORやフュージョンの緻密で滑らかなアンサンブルを大々的に取り入れた点でしょう。プロデュースにはブレーク前夜の坂本龍一が全面的に参加し、これまでにはないアーバンな表情を獲得。これにより過去作のSSW的な性格も保持しつつ、よりスタイリッシュな聴き味をもたらすことに成功しています。

かつての盟友山下達郎がファンクやフィリー・ソウルをモチーフにシティ・ポップを構築した一方、彼女は先んじて異なるアプローチからアメリカ的なグルーヴとその旋律を調和させました。国内外のマニアが本作を求めるのは、その先見性と高いクオリティの両立ゆえなのです。

第51位『平成』/折坂悠太 (2018)

平成元年に生まれ、かの時代と共に歩んだ折坂悠太。平成を回顧することは彼にとって、彼自身の半生を回顧することと同義です。そして事実、この『平成』は折坂の多様なバックグラウンドが表現された素晴らしき音楽的自叙伝となっています。

アフロ・ミュージックにニーナ・シモンズ、浪曲や民謡といった本作のインスピレーションの数々は、各地を転々とした彼の出自によく似ています。そうして構築されたポップ・ミュージックは、おおよそ平成の時代に流行したどの音楽とも似ていない素朴で朗々としたものですが、奇妙にも聴く者に平成への追想を差し向けます。

ごくパーソナルであって、それゆえに普遍的な侘しさや親しみを生み出す本作。制作そのものには多くのアーティストが参加しているものの、その性質や当時の彼がフランク・オーシャンにメンションしていた事実を思えば、この1枚は和式ベッドルーム・ポップとも評価できるのかもしれません。

第50〜41位

第50位『熱い胸さわぎ』/サザンオールスターズ (1978)

この日本において国民的ロック・バンドと称すべき存在は、サザンオールスターズを置いて他にいないでしょう。その長く豊かなキャリアゆえに彼らの最高傑作は未だ定説がありませんが、少なくとも彼らを最も象徴する1枚は1st『熱い胸さわぎ』だと言えます。

ラテンにディスコ、レゲエにリトル・フィートと、本作で取り入れたサウンドはあまりに多彩。その節操のなさやバンドの魅力の1つでもある剽軽なキャラクターから一聴すれば軽薄にも思えるものの、ただのユーモアでは立ち行かぬ、確かな作曲能力がどの楽曲にも感じられ、その軽薄さすらも計算の上なのですから恐れ入ります。

英語的に日本語を歌う桑田佳祐の歌唱はしばしば「日本語ロック論争」の文脈でも触れられるものの、彼らが厳めしい使命感に無関心であることは明らか。本作がただ気ままに繰り広げられる優れたポップス集だからこそ、サザンオールスターズは50年もの間愛され得るのでしょう。

第49位『TEAM ROCK』/くるり (2001)

「97年の世代」として登場して以降、くるりはその形態も音楽性も絶えず変化させながら前進しています。それゆえくるりの作品から1枚を選出するのはたいへんに困難ですが、少なくとも彼らにとって最も大きな転換点となった作品はこの『TEAM ROCK』でしょう。

前作までのギター・オルタナティヴというフォーマットや内向的な焦燥という感情表現から飛躍してみせたのが本作。サウンドには大胆にもエレクトロニカを取り入れ、その質感はセンチメンタルでありながらどこかポジティヴな温もりが感じられます。結果として、意欲的な作風の一方で作品像には過去にない親しみが生まれているのです。

本作以降さらにエレクトロに接近したかと思えばソリッドなロックへ向かい、果てはクラシック音楽的な意匠やヒップホップすらも難なく咀嚼する。くるりが示し続ける飽くなき探究の最初の一例として、『TEAM ROCK』はある意味では最もくるりらしい作品と言えるのかもしれません。

第48位『CAMERA TALK』/フリッパーズ・ギター (1990)

その短いキャリアで、フリッパーズ・ギターが生み落としたアルバムはわずか3枚。そのそれぞれが異なった個性を放つ名作ですが、こと「渋谷系」のアイコンとして彼らを捉えるならば、2nd『CAMERA TALK』はその典型例と言える1枚です。

ネオ・アコースティックを参照したUK志向の1stと比較して、本作はより多彩に、そしてより大衆的に発展しています。スノビッシュでマニアックな音楽性はそのままに、歌詞はすべて日本語で綴られ、DOUBLE K’O’ CORPORATIONのタッグ体制へ移行したことでサウンドのアプローチもいっそう自由で親しみやすいものへ向かっています。

気取りつつも愛嬌があり、知的でどこかユーモラス。サウンドにおいてもキャラクターにおいても「渋谷系」そのものと言える1枚ですが、「渋谷系」全盛期に先行している事実、そして翌年にはかの世界塔へ至ったことを思えば、小沢健二と小山田圭吾の才能には恐れ入るばかり。

第47位『名前をつけてやる』/スピッツ (1991)

J-Popの代表格として今日まで愛されるスピッツですが、彼らが本来パンク/ニュー・ウェイヴを志向するバンドであることはコアなリスナーならば誰もが知るところ。そのマニアックなキャラクターが最も強く発揮されたのが、初期の傑作『名前をつけてやる』です。

「ライド歌謡」とメンバーも表現した本作は、まさしくシューゲイズとJ-Popの交差地点。瑞々しく煌めくギターやオーケストラの狂騒にはシューゲイズらしい空間的な彩色が大きく影響している一方で、サウンド・メイクに耽溺することなく爽やかなポップネスを打ち出す点は如何にもスピッツらしいポップ・センスと言えます。

30年以上変わることのない、スピッツのポップネスと変態性のバランス感覚。その素養は彼らが元来持ち合わせていたものであることは、趣味性を強く打ち出しながらもJ-Popとして受容されて以降の諸作にも遜色ない瑞々しさを放つ本作に明らかでしょう。

第46位『C.B. Jim』/BLANKY JET CITY (1993)

スリリングで卑猥でクール。BLANKY JET CITYのレガシーで体現され続けたこのキャラクターは、シンプルゆえに決して容易いものではありません。彼らの3rd『C.B. Jim』は、このバンドの最大出力ともいえる作品です。

スリー・ピース特有のひりついたアンサンブルから繰り出されるのは、ロックンロールからパンク、ニュー・ウェイヴまでを凝縮したどこまでも肉体的なロック・サウンド。ベンジーこと浅井健一のアイコニックなグレッチのトーンとダーティーな歌声が、そこにムーディーな色香と仄かな哀愁を醸し出していきます。

BUMP OF CHICKENの登場以降、親しみやすさが大きな意義を持つようになった邦楽ロック・シーン。その対極に位置する、誰もが憧れながらも誰にも模倣できない絶対的なカリスマというBLANKY JET CITYの存在感が本作には刻印されているのです。

第45位『メシ喰うな!』/INU (1981)

INUを率いた町田町蔵は、後に町田康として芥川賞を戴く作家としても成功します。傑作『告白』にも見られる彷徨うように不安定ながらキャッチーな表現が、パンクという音楽にのっとって炸裂したのがこの『メシ喰うな!』。

捉えどころがなく、しかし巧妙に心に滑り込む奇妙なポップ・センス。パンク以降のロックに顕著な脱ブルースの指向に対応した空間的なギター・プレイ。破綻するかのようでいて見事な切れ味を誇る歌詞表現。本作を構成するすべては出鱈目なようでその実極めて理知的で、その演出の抜け目なさには目を見張ります。

題が掲げる支離滅裂な命令と、日本におけるパンクの大名盤という評価。そこから連想されるロンドン・パンク的な直情型のロックは、本作には不適切な偏見です。むしろNYパンク、あるいはポスト・パンク的なクレヴァーさこそが魅力の作品でしょう。

第44位『STILLING, STILL DREAMING』/THA BLUE HERB (1999)

ヒップホップがJ-Popとして受容されていった1990年代、そのメジャー化に北の大地から毅然とノーを突きつけたのがTHA BLUE HERB。彼らの1stは、どのヒット・シングルよりも当時のシーンを反映した1枚と言えます。

東京が支配的なシーンの構築やヒップホップの画一化、そうした悪性をILL-BOSSTINOは抉るようなリリックとタフなライムで批判します。O.N.Oによる重厚なトラックが浮かべる深刻な表情もその誠実さに拍車をかけ、散弾銃のように叩きつけられるのは一貫してアンダーグラウンド、一貫してリアルなヒップホップです。

怒気と誇りに溢れたこの傑作によって、後続のラッパーはメジャー/アンダーグラウンドの二者択一を迫られることになります。北海道は札幌から現状への警鐘を鳴らしシーンの多様化を促進させた、国産ヒップホップでも極めて重要な作品。

第43位『一触即発』/四人囃子 (1974)

1970年代にイギリスを中心に花開いたプログレッシヴ・ロックのムーヴメント。しかし日本でも、時を同じくして本国の諸作に比肩し得るプログレッシヴ・ロックの傑作が誕生しています。それこそが、四人囃子の『一触即発』。

ピンク・フロイドの『エコーズ』を再現できるというバンドの評判に違わぬ、プログレッシヴ・ロックの殿堂に対する憧憬と探究の痕跡は本作の至るところで表現されています。ファンタジックで壮大なサウンドスケープ、技巧的で複雑な演奏、どこを切り取ってもその出来栄えはかの「5大バンド」に匹敵する天晴れなものです。

同時代的にこれほどまでに1つのジャンルの再現性を達成したことはまったくもって驚異的。もしも当時のロンドンに本作が持ち込まれていれば、激賞をもって受け入れられたことは想像に難くありません。

第42位『元気です。』/よしだたくろう (1972)

歌謡とフォーク、言い換えればオーバーグラウンドとアンダーグラウンドの橋渡しを成し遂げた吉田拓郎(本作ではよしだたくろう名義)は、J-Popにおける最重要人物の1人。その貢献の根底となる彼の作家性の高さを示すのが、最大のヒット作である『元気です。』。

職業作曲家としての活躍を予見させるポップ・センスから慎ましやかな四畳半フォークの典型まで、ソング・ライティングの点でも抜かりない1枚ですがやはり特筆すべきはその作詞。個人的な心象をテーマとしつつどこか突き放したような筆致や、ボブ・ディラン的な字余りの技法もあって、そのリアリティは実に非凡です。

あくまでフォークのスタイルにはのっとりながらも、彼の紡ぐ言葉と旋律からは小気味よい躍動感が発せられ、そこにはフォークの慎ましさでは醸し出せない大衆性が宿っています。そうした意味で、より普遍的な日本語ポップスの初期を飾る名作としてこそ評価されるべき1枚。

第41位『ファンファーレと熱狂』/andymori (2010)

2000年代に、極めて多様に、そしてガラパゴス的に発展した日本のロック。そこに共通したのが若者の焦燥感や繊細な心情の表現ですが、andymoriの2nd『ファンファーレと熱狂』ほどに鮮やかな景色を描いた作品もないでしょう。

前進するビートに小細工のないギター・ストローク。2000年代に英米で展開されたロックンロール・リバイバルを参照したであろうソリッドなバンド・サウンドをベースにしつつ、時折見せるハートウォーミングな表情や白昼夢のように曖昧であってリアリティのある歌詞が、青春の向こう見ずな輝きを紡いでいきます。

所狭しとコラージュされた多種多様な人々の姿が、青空のもとでひしめき合う。閉塞感への憤りや自由への高揚をこれ以上なく表現した本作のヴィジョンは、アートワークが象徴しています。まさに題の通り、青春という熱狂を誇ってみせる高らかなるファンファーレはあまりにタイムレス。

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