少々間隔が空いてしまいましたが、本日も1980年代洋楽史解説特集を進めていきます。本シリーズのバックナンバー、そして過去シリーズも是非併せてどうぞ。
前回はMTVの設立をパラダイムシフトであると定義して、その意義を俯瞰的に解説していきました。しかし洋楽史を解説するのであれば、MTVはあくまでフォーマットに過ぎず、そのフォーマットの中で躍動した音楽そのものに照準を定めるべきでしょう。
当然そのことは承知の上、今回は正にそういった内容です。今日においても最も華やかなポップス・シーンと懐古される1980年代の洋楽ヒット・チャートを振り返っていきましょう。
その上で、単にヒット曲を思い返すだけでなく、そこにどういった意義があったのか、そういった考察も踏まえて解説を進行していきます。ボリューミーなセクションにはなりますが、どうぞお付き合いください。それでは参りましょう。
ブラック・ミュージックを拡張した2人の天才
MTV時代を掌握した「キング・オブ・ポップ」
MTVが洋楽ポップスの全盛期、その眩い光を支えた格好の舞台であるということは本シリーズで既に何度か言及しました。
§1.に登場したニュー・ロマンティックの一群もこのMTV時代の恩恵を受けましたが、しかしこの時代の動向を追い風に、最も高く飛翔したアーティストは他にいます。その人物こそ、マイケル・ジャクソン。人類史上最高のエンターテイナー、「キング・オブ・ポップ」その人です。
ジャクソン5のメイン・ヴォーカルとして一躍スターダムに上り詰め、1979年にリリースした事実上のソロ1st『オフ・ザ・ウォール』でアーティストとしての地位も確固たるものにした彼ですが、最大の成功を収めるのはこの1980年代において。
1982年にリリースされたアルバム『スリラー』は全世界で7000万枚の売上を記録。この破格のセールスは未だかつて破られない史上最大のものです。また同アルバムは、音楽界で最も誉高いアワード、グラミー賞において主要2部門を含む8冠という前人未到の偉業を達成。
この成功の秘訣、『スリラー』がこれ以上なくエヴァーグリーンでジャンルレスなポップスであるという厳然たる事実を除いてですが、それはMTVがもたらしたビデオ時代を最大限に活用したビデオ・クリップによるコマーシャルにありました。
ストーリー仕立ての『ビリー・ジーン』、『ウエスト・サイド物語』に着想を得たダンスが印象的な『今夜はビート・イット』、ホラー映画さながらの完成度を誇るミュージック・ビデオの最高傑作『スリラー』。これらのビデオは連日MTVでヘビー・ローテーションされ、アルバムのセールスに拍車をかけました。事実アルバム『スリラー』は、通算37週にわたってビルボード・チャート1位を独占する驚異的なロング・セラーになっています。
また、『ビリー・ジーン』のビデオはMTVのある不文律を打ち壊した一例としても有名です。それは、「黒人アーティストのビデオは放送しない」という極めて差別的な方針。この事実はマイケル・ジャクソンの絶対的な人気を示すものばかりか、彼がアフリカン・アメリカンのエンパワメントとして機能していたことをも表しています。
プリンスが示した淫靡なカリスマと「ミネアポリス・サウンド」
さて、『ビリー・ジーン』のビデオがMTVの差別的方針を打ち破ったと語りましたが、実は同時期に同じ達成を成し遂げたアーティストがもう1人います。彼の名はプリンス。今もなお、マイケル・ジャクソンと並び1980年代ポップスにおける最大の天才と称される人物です。
彼もまたMJ同様、ビデオ時代の流れに乗ることでヒットを連発するようになります。出世作『1999』からのシングルもその一例ですが、プリンスの映像表現として何を置いても語るべきは『パープル・レイン』でしょう。
プリンス自身が主演を務めた彼の自伝映画のサウンド・トラックである『パープル・レイン』は、多作で知られるプリンスのキャリアでも最高傑作と目される1枚。映画からの抜粋として発表されたビデオも注目を浴び、アルバムは24週にわたってビルボード1位の座に輝きます。また、本作からのシングル『ビートに抱かれて』は年間セールス1位を記録する大ヒットに。
プリンスの映像表現について特筆すべきは、そのインモラルなカリスマ性。同じビデオによるアピールにおいても、MJが全年齢的ポップ・スターとなったのとは対照的に、プリンスはセクシャルで妖しげなキャラクターによって大衆の好奇心を刺激することに成功しました。
また、彼の打ち出した音楽性も重要です。ジェームス・ブラウンやPファンクから影響を受けつつも、そこにサイケデリック・ロックやニュー・ウェイヴ、ポップスのエッセンスを折衷し、1980年代的なデジタル・サウンドでまとめ上げるプリンスの表現は実に斬新でした。そのスタイルは彼の故郷の名を冠して、「ミネアポリス・サウンド」と呼ばれます。
この「ミネアポリス・サウンド」は1980年代のブラック・ミュージックにおける1つのフォーマットとなっていきます。マイケル・ジャクソンの実妹として注目を浴びたジャネット・ジャクソンも、プリンス傘下のプロデュース・タッグ、ジャム&ルイスを迎えて制作した『コントロール』で初のヒットを記録しました。
横軸と縦軸、MJとプリンスが拡張したブラック・ミュージック
マイケル・ジャクソンとプリンスについて触れた以上、やや解説は脇に逸れますがこの2人の功績についても考察しておくべきでしょう。ステレオタイプではあるものの、ザ・ビートルズとザ・ローリング・ストーンズ、あるいはオアシスとブラーのように、この2人は今日でもしばしば比較される存在ですから。
2人のブラック・ミュージックに対するアプローチは、その本質において実のところ共通しています。共にジェームス・ブラウンをルーツとし、ファンクやR&Bのスタイルに多様なジャンルを接続する手法を取っていますから。しかし、そのベクトルが対照的。空間的に表現すると、MJは横軸に、プリンスは縦軸にブラック・ミュージックを拡張します。
まずはマイケル・ジャクソン。彼は古巣モータウンの指針であった「ブラック・ミュージックのポップス化」を継承し、それをよりボーダーレスに展開しました。
エディ・ヴァン・ヘイレンをゲストに迎えた『今夜はビート・イット』はR&Bシンガーにあるまじきハード・ロック・チューンですし、ポール・マッカートニーとのデュエット『セイ・セイ・セイ』はやはりソウル色の薄いナンバー。そこには音楽に横たわる人種の差異は最早なく、全人類的なキャッチーさを持ったポップスとして成立しています。
また、数々の映像作品、あるいは彼のトレードマークとなった「ムーンウォーク」に顕著なダンス・パフォーマンスも、彼の大衆性への大きな貢献。彼は聴覚的にも視覚的にも、ブラック・ミュージックを普遍的なポップスの領域に押し広げたのです。この影響はビヨンセやブルーノ・マーズといった、現代ブラック・ミュージックのスターにも及んでいます。
ではプリンスはどうでしょう。先に触れた通り、彼の提示した「ミネアポリス・サウンド」は多くのアーティストに参照されました。しかし現代からプリンスの音楽を振り返れば、1987年の『サイン・O・ザ・タイムス』こそが最大の発言力を持つ作品なのです。
多種多様な音楽性の接収に加え、バック・バンドのザ・レボリューションを解散させ全ての楽器演奏を1人で手がけた「密室ファンク」の息詰まる熱量とDIY精神。そこにはブラック・ミュージックに対するアカデミックな執心、あるいは求道者のような孤高の佇まいがあります。
こうしたプリンスの働きによって、ブラック・ミュージックはよりアーティスティックに、よりディープに発展することになります。それは2000年代にグルーヴの概念を維新したディアンジェロや、フランク・オーシャン、ザ・ウィークエンドといったブラック・ミュージックのパイオニア達に影響を与える重要な歩みです。
前回、MTVはポップスの粗製濫造を招いたという指摘をしました。しかしその中にあって、MTV時代の象徴とも言えるこの2人の天才は短絡的なヒット・メイカーに終始しないだけの創作と革新をポピュラー音楽の世界に残したのです。ブラック・ミュージックの存在感が増大した現代シーンを生きる我々が1980年代を振り返る時、この事実を見落とすことはあってはならない事態です。
ポップス・シーンにおける多様性の向上
ポピュラー音楽の「ウーマン・リブ」
次なる切り口は女性。今日においてもしばしば批判されるポピュラー音楽における男性優位の構造ですが、そこに大きな変化が生じたのもこのMTV時代と言えます。
まず語るべきはマドンナでしょう。35ドルを握り締め単身ニューヨークに移り住み、「私は神より有名になる」と野心を燃やした彼女は、2ndアルバム『ライク・ア・ヴァージン』で一躍大スターへ。その後も立て続けにヒットを記録し、史上最も成功した女性アーティストの座にまで上り詰めます。
彼女のこの巨大な成功にも、やはりビジュアル的なインパクトにその要因があります。マリリン・モンローへのオマージュを捧げた『マテリアル・ガール』に代表されるミュージック・ビデオや、しなやかなダンス・パフォーマンスによる視覚的なアピールは、それこそMTV時代の覇者、マイケル・ジャクソンと共通するものですから。
加えて、彼女の華やかで個性的なファッション・スタイルも注目の的でした。街にはマドンナのファッションだけでなく、仕草や口調までもを真似た「ワナビーズ」と呼ばれる熱狂的なファンが溢れ、社会現象にまで発展します。
そしてMJやプリンスにない、マドンナだけの強み、それは女性からの共感です。彼女は映像の中で自身の女性性を惜しげもなく主張しますが、それは男性に迎合するか弱さとは程遠い、むしろセックス・アピールによって男たちを手玉に取る強靭で主体的なもの。マドンナのこの際どくも誇り高い姿は多くの少女を励まし、アカデミックなフェミニズムの文脈でもしばしば議論されるほど重要なものです。
マドンナがその火付け役だったとするのはいささか恣意的に過ぎますが、彼女の成功以降、ビルボード・チャートでは女性アーティストの活躍が目立つようになります。その例としてあげられるのは、『シーズ・ソー・アンユージュアル』で遅咲きのヒットをもぎ取ったシンディ・ローパー、卓越した歌唱力を武器にバラードからダンス・チューンまでを歌いこなすディーヴァのホイットニー・ヒューストン、バンドというフォーマットですが『マニック・マンデー』などのヒットで知られるバングルスら。
60’sのガールズ・グループとの差異
さて、今触れたヒット・チャートにおける女性の存在感というのは、何も1980年代に初めて表れたものではありません。多くの女性ミュージシャンがヒットを記録した時期というのがそれ以前にも存在するのですが、それは1960年代におけるガールズ・グループの流行。
フィル・スペクター傘下のザ・ロネッツやザ・クリスタルズ、モータウンの看板グループだったザ・シュープリームスらが1960年代にポップ・チャートを賑わせていたことは事実です。しかしそこには、1980年代の女性アーティスト達の躍進との決定的な違いがあります。それすなわち、主体性の有無。
ブリル・ビルディングにしろモータウンにしろ、当時のポップスにおいて作曲とパフォーマンスの分業制は一般的なものでした。それゆえ彼女たちのヒット・ナンバーは、女性としての主体性に欠けています。これは決してガールズ・グループを貶す目的での指摘ではなく、そうした性格があるという事実の確認であることはご理解ください。
しかし1980年代に至るとどうでしょう。マドンナもC・ローパーも、ビッグになるという野望を燃やし音楽シーンに殴り込みをかけます。そのアティチュードは紛れもなく自発的なものですし、その力強さが女性からの支持にも繋がったことは先程マドンナに関する解説でお伝えした通り。またその背景には、1970年代にディスコ・シーンで女性シンガーが支持された影響もあるでしょう。
MJやプリンスは音楽産業の黒人差別を打ち破りましたが、彼女たちは音楽シーンで女性が声を上げることの意義を示したのです。マッチョイズムの根深いロック・シーンからでは発せられることの難しいであろうこの主張は、ポップスがかつてなく発言権を持つ1980年代特有のものと言えるかもしれません。
グローバル化の進むヒット・チャート
こちらはやや補足的な解説ではありますが、ポピュラー音楽の多様性の観点から1980年代ポップスを紐解くのであれば、そのグローバル化も重要な動向でしょう。
MTV設立の地であり世界最大の音楽市場を誇るアメリカですが、1960年代までその市場はドメスティックな性質を強く持っていました。1960年代前半に、ザ・ビートルズらブリティッシュ・ロックの一群がチャートを席巻した「英国侵略」によってこの性質はやや軟化したものの、イギリス以外の文化圏からこの状況を突き崩すアーティストは現れませんでした。
そこから長らく国際的なポピュラー音楽市場は、アメリカとイギリスの寡占状態となるのです。ほとんど唯一の例外として挙げられるのは、1970年代後半にスウェーデンから世界的ヒットを次々に放ったアバくらいでしょうか。
しかし1980年代には、国の枠組を超えたヒット・ソングが目立つようになります。ビデオ時代を象徴するミュージック・ビデオの大名作、『テイク・オン・ミー』で知られるa-haはノルウェーのアーティストですし、『ロックバルーンは99』がヒットしたネーナは西ドイツのシンガー。前回のハード・ロックに関する解説で名前だけご紹介したAC/DCや爽やかな「ペパーミント・サウンド」でヒットを飛ばしたAORバンドのエアー・サプライ、彼らはオーストラリア出身のバンドです。
K-Popがビルボード・チャートを席巻し、レゲトンがストリーム・サービスで国際的な人気を博す今日のポピュラー音楽の情勢、進みゆくボーダレス化の流れの中にいる我々にとって、1980年代に起こったポピュラー音楽の国際化も意識を留めておくに足る現象と言えるでしょう。
映画産業と結びつくポップス
最後に、1980年代ポップスにおけるトピックとして、映画産業との結びつきに関しても見ていきましょう。
前提として確認しておきたいのが、ポピュラー音楽と映画産業のコンビネーションは、決して1980年代に端を発するものではないという点。エルヴィス・プレスリーは陸軍除隊後には銀幕の世界で活躍しましたし、ザ・ビートルズもいくつかの映画作品をキャリアの中で発表しています。
ただ、1980年代には映画のサウンドトラックや主題歌のヒットがこれまでになく目立つようになっていきます。ここには、MTVによって映像と音楽の相互作用がより一般的になった効果や、1980年代のハリウッドがポピュラー音楽の世界同様に、大衆的でキャッチーな作品を量産した傾向の影響があると考えられます。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に『トップガン』、『フラッシュダンス』や『ゴーストバスターズ』、それから『グーニーズ』……いずれも1980年代を代表するヒット映画ですが、これらの作品を思い出す時、同時にヒューイ・ルイスやケニー・ロギンス、マイケル・センベロらの音楽を追想することにもなるはずです。
これまでも『サタデー・ナイト・フィーバー』や『グリース』のようなサウンドトラックのヒットはありましたが、ここまで短い期間に映画と紐づいたヒット曲が次々に生まれたのは1980年代に特有です。より大衆的に、より大きなヒットを。そうした「商品化」への舵取りが見られた1980年代ポップスらしい現象と言えるでしょう。
まとめ
- MTVによるポピュラー音楽の視覚化を利用し、マイケル・ジャクソンが『スリラー』で現象的ヒットを記録。同時期のプリンスと共に、アフリカン・アメリカンとして類を見ない巨大な成功を獲得する
- マドンナをはじめ、女性アーティストもMTV時代の中で商業的成功を収めていき、ポピュラー音楽の男性優位の構造に一石を投じる契機となる
- 英米の寡占状態にあったポピュラー音楽市場に、西洋諸国のヒット・ソングが登場し市場のグローバル化が進行
- 映画産業との結びつきが強まり、多数のヒット作品が生まれる。ポピュラー音楽の商品化という時代性を反映した動向となる
今回の内容の要約は以上の通り。予告通り、たいへん長いセクションとなってしまいました。お付き合いいただき感謝します。
今でも触れる機会の多いこの時代のポップスですが、その意義にまで迫ることは決して多くはないように思います。加えて、ロック中心史観に陥れば、こうした「商品化」の真髄ともいえる一連のヒット曲は軽んじられてしまうことにもなりかねません。
しかしそこには確かな意義がある、それも現代を生きる我々にだからこそ見えるものが。客観的に歴史だけを語る解説ではなく、私の解釈も大いに織り交ぜたものになってしまったことはやや気がかりなのですが、そうするだけの必然性があるトピックだったとご理解ください。
さて、堅苦しい議論が続きましたが、次回はしばし小休止、幕間としましょう。MTV時代、ビデオ時代と再三にわたってお伝えしてきましたが、その時代を象徴するビデオ・クリップを一挙ご紹介する予定です。どうぞお楽しみに。
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