本日10月9日はジョン・レノンの誕生日ですね。存命であれば82歳になってるんですね……
個人的にアーティストのパーソナリティにはそこまで関心を持たないタチの私にとっても、ジョン・レノンという「人間」はいつだって興味深い存在でした。この際音楽家としての巨大さを引っ剥がしたとしても、すごく意義深い人物ですからね。
で、その中で私がたびたび思い至るのが、ジョン・レノンに対しての「平和の象徴」というパブリック・イメージ、ここへの違和感なんですね。
多分音楽に関心がない層にもジョン・レノンというアイコンは広く浸透してますが、そこには色んな誤解やバイアスが存在していると思っていて。今日という日に、彼の偉大さを讃えながらここのところにいっちょ踏み込んでみたいと思います。
ジョン・レノンは聖人ではない
まずここなんですよね、レノンを「平和の象徴」として担ぎ上げる時、絶対に無視されてしまうのが彼の人間としての悪性。彼を聖人のように褒めそやすのがそもそも間違っていると思うんです。
分かりやすいのがザ・ビートルズ解散後のポール・マッカートニーとの舌戦ですよね。この手の議論で必ず引用される楽曲ですが、“How Do You Sleep ?”の歌詞なんてもう酷い。
“Sgt. Pepper”や“Yesterday”、“Another Day”とマッカートニーに関連するフレーズをあからさまに引用し、徹底的に彼を非難するという内容です。そもそもタイトルがマッカートニーの大きな垂れ目を揶揄ったものだし、かの有名な「ポール・マッカートニー死亡説」までご丁寧に言及していて。
レコーディングの際のエピソードもタチが悪くて、セッション・メンバーにレノンが出したオーダーは「もっと悪意を込めて演奏しろ」。オリジナルの歌詞はもっと露骨な罵詈雑言だったとの証言もあります。レコーディングに同席したリンゴ・スターが「その辺にしとけ」と嗜めたほどでね。こういうところでさり気なく株をあげるリンゴも流石ですけど。
このマッカートニーとの対立は、まあ個人間の問題として擁護するとしてもです。一般的な倫理観からしても、オノ・ヨーコとの蜜月関係は前妻のシンシア・レノンとの婚姻が継続した中でのいわば不倫な訳ですし、そのオノ・ヨーコと正式に結婚してからも「失われた週末」と呼ばれる退廃的別居期間があったでしょ?現代日本なら週刊文春が黙っちゃいないようなスキャンダルじゃないですか。
こういう性格ってジョン・レノンという人物の大きな側面の1つなんですが、ここを知らずに、あるいは目を瞑って、“Imagine”や“Give Peace A Chance”の印象だけで彼を定義するのはちょっと軽薄すぎると私は思います。
ファッション、あるいはトレンドとしての「ラヴ&ピース」
こっから語る内容、ともするとレノンのシンパからどやされるかもしれないんですがあえて忌憚なくいきます。レノンが主張した愛と平和のメッセージ、これも果たしてどこまで本気だったのかは正直怪しいと思っていて。
いや、本気だったは思うんです。ただ、表現者としてのジョン・レノンを考察すれば、そこにはある種のファッション性、そういう側面もあったのではないかと思えてくるんです。
ジョン・レノンって、実は極めて感化されやすい人物なんですよね。これはザ・ビートルズでの歩みに明らかなんですよ。ちょっと振り返ってみましょうか。
1965年にはボブ・ディランに傾倒してフォークの内向性を獲得し、翌年にはLSDのトリップや東洋思想に大きな関心を寄せ、さらにその翌年に「スウィンギング・ロンドン」の中で芽吹く前衛アートに接近していく。でも60’s末にはブルースやソウルに戻っていって……ね?移り気でしょ?
これは別に彼が軽薄だったと言いたいんではありません。感性のアンテナを常に立てて、キャッチしたものをすぐさま吸収してしまう理解力の高さ、これってむしろジョン・レノンの最大の才能だと思うので。ザ・ビートルズがあれほど多様な音楽性を示したのは、このレノンの鋭敏さに大きく由来しているでしょうからね。
その文脈で考えれば、「ラヴ&ピース」だって彼がキャッチしたトレンドの1つだったと思うんです。彼の内部から本質的に発せられたというより、彼が外部から受信し、表現の媒体として持ち出したトピックだったのではないかと。だってレノンの「ラヴ&ピース」の最初の一例、フラワー・ムーヴメント全盛期の中での“All You Need Is Love”ですし。
「ラヴ&ピース」の本体はオノ・ヨーコ
で、1つ前のトピックの続きなんですが。レノンがどこから「ラヴ&ピース」を受信したかとなると、その本体ってオノ・ヨーコだと思うんですよ。
分かりやすい例として、ジョン・レノンを代表する名曲にして平和唱歌、“Imagine”があります。
この楽曲のコンセプトって、オノ・ヨーコが1964年に発表した詩集、『グレープフルーツ』の中の
Imagine the clouds dripping, dig a hole in your garden to put them in
雲が滴り落ちてくると想像してごらん、その雲を受け止める穴を庭に掘りなさい
『グレープフルーツ』より引用 (日本語訳はPierreによる)
という一節にインスピレーションを受けたと、レノン自身がのちに告白しています。
この詩そのものに平和のメッセージが直接的に込められているとは思いませんし、もっと観念的な内容ではあるんですけど、でもこういうオノ・ヨーコというアーティストからの影響ってレノンにとって重要だったはずで。
「ベッド・イン」や仮想国家「ヌートピア」の建国宣言に顕著ですけど、レノンがメッセンジャーとして大きく動く時、その傍らにはいつだってオノ・ヨーコがいたじゃないですか。これは別に「どこにでも彼女を連れてくるめんどくさい男」ムーヴではなく、そのメッセージの共同発信者として、オノ・ヨーコが大きな役割を果たしていたからこそです。
それに、レノンはハウス・ハズバンドとして音楽シーンから後退して以降、それほど強く愛と平和をアピールしてこなかった一方で、オノ・ヨーコは現在でもなお絶えずメッセージを発信している。この持続性という点から見ても、実は本質ってレノンではなくオノ・ヨーコだったと私は理解しています。
彼女に関しては長らく「ザ・ビートルズを崩壊させた魔女」として世界中からいわれなき嫌悪を向けられ、またその表現が一貫してアーティスティックであるために「奇人」の印象もぶっちゃけ根強いじゃないですか。でも、ジョン・レノンを「平和の象徴」とするならば絶対に彼女は同じだけ評価しないといけないし、なんなら「平和の象徴」に真に相応しいのは「ジョン&ヨーコ」なんじゃないかと。
ジョン・レノンは「人間の弱さの象徴」である
さて、最後になるんですが、じゃあレノンが「平和の象徴」でないならば、一体あのカリスマはどう定義されるべきなのか?私は、それを「人間の弱さの象徴」だと考えます。
たとえば再びポール・マッカートニーとの関係性に戻って。レノンにとっての彼は、少年時代には無二の親友であり、ザ・ビートルズの初期においては絶大な信頼を寄せるパートナーであり、作曲の分業化が進んでからは最大のライバルであり、そして解散後は憎しみの対象。この複雑でアンビバレントな感覚を、彼はずっと抱えていたはずなんですね。
だって最も2人が憎しみ合っていた時期においてすら、レノンに同調してマッカートニーを悪様に言う記者を「あいつの悪口を言っていいのは俺だけだ」と一喝している。愛憎入り交じる、一貫されない矛盾を端的に表しています。
それに彼を知る人の証言の多くが、ジョン・レノンという人間の二面性を物語っています。ユーモラスな瞬間を見せたかと思えば触れ難い印象を人に与える、そういう人物だったと。この一貫しない人間性、リアリティのある存在感、これこそが彼の最大のキャラクターだと思うんですよ。
そのリアリティが最も克明に描かれたのが、ザ・ビートルズ解散後にリリースされた“John Lennon/Plastic Ono Band”。邦題『ジョンの魂』です。
母の愛を求め慟哭し、「労働階級の英雄」と自嘲的に嘯き、「ザ・ビートルズなんて信じない」と過去を拒絶し、「俺が信じるのは俺とヨーコだけ」と危うげな意志を表明する。その壊れかけの精神が、極めてシンプルなサウンドの中で生々しく煌めいている。ここまで自伝的で剥き出しの音楽作品を、私は他に知りません。
そりゃあ音楽家としてのジョン・レノンを語るならば、それは“Strawbwrry Fields Forever”でもいいし、“Help !”でも“Tomorrow Never Knows”でもいいと思います。ただ、ことジョン・レノンという存在そのものに接近するならば、私は『ジョンの魂』こそが全てだと思ってます。
まとめ
1〜2時間で書き殴ったもんで、かなり乱暴というかまとまりに欠ける主張になってしまった感はありますが……お楽しみいただけたでしょうか。
ただ、文字に起こしたのは短時間ですけど、今回の内容って私が何年も何年も考えてきたものなので。私にとってのジョン・レノン、それは表現できたんじゃないかな。
振り返るにつけ、やっぱりジョン・レノンって偉大ですよ。誰もの心に食らいつく、強烈なカリスマと才能の持ち主でした。でもその根っこには、「平和の象徴」から連想される善性や完全さとはまったく逆の、弱さや不完全さがある。ここのところを、もっと多くの方に理解してほしいと思っています。
そうだ、最後にこれを言わなきゃしまるもんもしまりませんね。ジョン、誕生日おめでとう!
コメント
リンゴでなくてジョージでしょ。
コメントありがとうございます。
『眠れるかい』にはジョージ・ハリスンも参加していますが、歌詞に対して苦言を呈したのはリンゴ・スターだったかと記憶しています。当時はハリスンもマッカートニーにかなり嫌悪感を抱いていた事実を踏まえても、ここでレノンを嗜めるのはやはりハリスンではないのではないかと。
そもそもビートルズとポール無しにジョン
の存在は成立し得ないと思うくらい圧倒的にポールを評価したい派なんで、世間がジョンを神格化する事への違和感は分かるけどさ?でもこの考え方はそもそもテーマになる「平和」自体の解釈がズレてると思うな。ジョンの解釈じゃ不倫じゃなくLOVEなんだし?自由にLOVEを求めるのがpeaceなんだしさ?
コメントありがとうございます。
私がこのポストで問題視したのは一般大衆がジョン・レノンに抱く「平和の象徴」への違和感です。
であれば、如何にレノンの中で正当化されるものであっても、不倫の事実は彼の善性というイメージには反するものではないでしょうか。
また、これは私見ですが、他を顧みず自由に愛を貪るのは平和という理性的概念に反する行為だと考えます。事実、ジュリアン・レノンは家庭の崩壊に心を痛め、精神的安寧を乱されていたのですから。
ジョン及びビートラズのファンならば彼を平和の象徴とするわけもなく、これは世界中に広がった「イマジン」という曲の影響が強すぎるということです。曲は発表すると一人歩きを始めてどんどん成長して作者の元を離れていきます。現在においてもこの曲を超える平和に関しての歌が出現していないのでこのギャップは埋められないでしょう。作品と作者のギャップの大きさは他にもたくさんあるのであえて声を大きくするようなことではないと思います。
コメントありがとうございます。
おっしゃる通りで、作者と作品の乖離はポピュラー音楽の世界のみならずあらゆるアートにおいて存在する問題だと思います。
ただ、ことジョン・レノンとなると、その乖離があまりに激しく、常に一人称的であった彼の作品を受け止める際に不利なバイアスが生まれるおそれすらあると私は考えます。それゆえ、こうした指摘を声高にさせていただいた次第です。ご理解いただければ幸いなのですが。
全く同意します。
ジョンレノンを正しく捕らえたファンですね。
好印象です。
コメントありがとうございます。
本来ただ音楽に触れるだけならばアーティストの人間性は無視してもいい部分なのでしょうが、絶えず一人称の表現者だったジョン・レノンに踏み込むのであればこうした理解も必要になるのではと思ってのポストでした。賛同していただき恐縮です。
なぜあなたのブログが私の所に表示されたのか分かりませんが、内容を読ませていただいたところ、浅く、悪性を感じる内容でした。発信する自由もあるとは思いますが、相応の反作用もあるとお考えください。
コメントありがとうございます。
あくまで私見ですので、内容に賛同されるか否かは読まれた方それぞれの判断だと思います。むしろ、そこに賛否両論があることの方が健全でしょう。
しかし、私の浅慮や悪性を具体的に指摘されないことには、私としても省みる手立てがありません。それに、「相応の反作用」とはなんでしょう?批判されることを指していらっしゃるのであれば、それは活発な議論のきっかけでありなんの不利益も私には生じません。
気まぐれでお読みになったとのこと、この返信をご覧になることもないかもしれませんが、もしお気づきであれば忌憚なく思われたことをご教示いただければと思います。
こちらの記事、とても興味深く読ませていただきました。私がなんとなーく感じていた事を言語化して下さったような。
神でも、聖人でもない。彼の人間臭さに触れると、我々と同じ人間なんだなーと当たり前の事を思い出し、だからこそ、よりジョンの”凄さ”が身に染みる気がしました。