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1970年代の洋楽史を徹底解説!§8. パンク〜ロックはロックによって崩壊した〜(前編)

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残すところ2回となった1970年代洋楽史解説、今回も張り切って参りましょう。

今回は本シリーズのハイライト、ロック史上最大の転換とも言えるパンクの勃興についてです。ロックにとって激動の時代だった1970年代、その結末がこのセクションの内容となります。

本文で最低限の確認は適宜加えるものの、やはりこれまでの動向を理解しておくに越したことはありません。過去8回にわたる本シリーズ、是非とも最初からお読みください。バックナンバーはこちらから。前シリーズの「1960年代洋楽史解説」も合わせてどうぞ。

パンク成立の背景

まずはパンクが登場するに至った、その背景について。音楽文化史上重要なこの出来事を理解するには、この部分を見落としてはいけません。

まずは前回も触れましたが、1970年代中頃のロックは形骸化と呼んでいい状態に陥っていました。めくるめく進歩と産業としての膨張によって、ロックは元来持つべき主張としての性格や革新性という芸術的性質を徐々に失っていったのです。

それに付随して、ロックの再現性の低さという弊害も生じます。

例えば1960年代の「英国侵略」を例に挙げてみましょう。(詳細はこちらで解説しています。)

この出来事の背景には、1950年代後期にイギリスで起こったスキッフルというムーヴメントがあります。これはアメリカのロックンロールに感化されたイギリスのティーンエイジャーが、簡易的な楽器によってアマチュア・バンドを結成した流行のこと。

この「英国侵略」は1960年代におけるロック発展の起点となる出来事なのですが、その背景にはこのように、情熱さえあれば誰もが音楽を始められるという再現性の高さがありました。

ここで視点を1970年代に戻すとどうでしょう。

当時のロックは、技巧的な演奏によって表現されていました。バンドの花形であるギターであれば「3大ギタリスト」がいますし、その他のパートもジョン・ボーナムキース・エマーソンといった非凡な演奏技術を持ったプレイヤーが注目されていた時代です。

また、そうした演奏を支えたのが高価な機材です。代表的なものだとシンセサイザーでしょうか。当時シンセサイザーは最先端の電子楽器で、一般市民には手が出せない高価なものでした。

しかしプログレッシヴ・ロックのようなジャンルではシンセサイザーが多用され、こうした音楽の再現には高価な機材が必須です。こうした現実的な再現性も低いと言えます。

そして、ロックのレコードを制作するにあたっては最新鋭のスタジオ・ワークも欠かせません。サイケデリック・ロックの発展以降、多重録音やスタジオでのテープの切り貼りといった演奏以外のテクニックも要求されます。

こうした全ての要素が、ロックの敷居を高くしていたのです。スキッフルとは真逆の状態、ロックを誰もが表現できるとは到底言えない時代です。

こうした状況への反発として、パンクは先進的な若者の間で生まれました。

パンクの先駆者〜ガレージ・ロックとニューヨーク・ドールズ〜

お待たせしました、ここからいよいよ音楽の話をしていきます。とはいえ、パンクそのものの話ではないのですが。

パンク勃興に関して、その礎となった音楽がいくつか存在します。ここの確認もしておきましょう。

ガレージ・ロック

ガレージ・ロックは1960年代中盤にアメリカで生まれたロックのサブ・ジャンル。以前こちらでも解説しています。

このジャンルを、私は「1960年代的スキッフル」と認識しています。プレスリーに憧れたイギリスの少年がバンドを始め、そしてその中からザ・ビートルズが生まれた。そしてそのザ・ビートルズに憧れたアメリカの少年がバンドを始めた。そうした「ロックの再現性」の伝統の一環として。

MC5ザ・ストゥージズは今でもロックの歴史に名を残す偉大なバンドですが、ガレージ・ロックにはその他にも無数のアマチュア・バンドがいました。友人同士で結成し、地域的なヒットを1曲だけ持つもののその後は鳴かず飛ばずで解散……といった経緯のバンドです。

そうしたガレージ・ロックのコアな名曲を集めたコンピレーション盤が『ナゲッツ』。このアルバムは当時のガレージ・ロックが持つ原始的な情熱、荒々しい創作意欲をパッケージすることに成功し、パンクの精神性の重要な根拠となりました。

I Had Too Much to Dream (Last Night) (2007 Remaster)
『ナゲッツ』のオープニングを飾るジ・エレクトリック・プルーンズのナンバーです。ガレージ・ロックというよりはむしろサイケデリック・ロックのテイストが色濃いものの、1960年代の創作としてそれは当然の結果です。旺盛な実験精神と荒削りの表現はこの楽曲にもよく表れ、『ナゲッツ』はパンクのルーツとして後年より評価が高まりました。

ニューヨーク・ドールズ

ここで具体的なバンド名を挙げておきましょう。ニューヨーク・ドールズについて。

New York Dolls – Personality Crisis
ニューヨーク・ドールズの1stをプロデュースしたのは、あのトッド・ラングレン。このことからも彼らをパンクそのものと認めることは難しいのですが、このビデオにも表れている過激性は紛れもなくパンクの重要な参照元です。2ndのプロデュースがマルコム・マクラーレンであるというのも示唆的です。

ジョニー・サンダース率いるこのバンドは、煌びやかで中性的なファッションを持ち味としたグラム・ロック的なアティチュードを持っていました。しかしそのステージングは極めて過激、それこそMC5の系譜にあるパフォーマンスです。

「グラム・ロックは「ロックの産業化」の象徴である」という仮説を以前こちらで提唱しましたが、しかし一方で剥き出しの芸術性や露骨なアピールというのはパンクの持つ退廃の空気や自由な表現にも結びつけられるものです。

その架け橋として機能したのがこのニューヨーク・ドールズと言えるでしょう。歴史の中でその存在感は決して大きいとは言えない存在ですが、パンクの創始に大いに貢献したバンドとしてその意義は本来高く見積もって然るべきだと私は考えています。

NYパンクの震源地、CBGB

ようやくパンクの動向を見ていくことができます。まずはパンク誕生の地、ニューヨークでのパンクについてです。

今日、「パンクといえばロンドン」という認識が定着している感があります。セックス・ピストルズザ・クラッシュへの評価が極めて高く、またパンクのイメージにより近い彼らのスタイルが理解しやすいからでしょう。

しかし、あくまでパンク誕生の地はニューヨークであり、パンク勃興の経緯を思えばNYパンクこそがその本質であると理解すべきです。音楽的な嗜好はさておき、歴史認識として。

さて、NYパンクは1つのライヴハウスから生まれます。そのライヴハウスの名は、CBGB

CBGBには、「出演バンドは、全てオリジナル曲をプレイしなければならない」という鉄の掟が存在しました。この掟こそが、このライヴハウスに独創的な才能が集まり、パンクの震源地となった最大の理由です。

日曜夜のレギュラーで出演していたテレヴィジョンを筆頭に、ラモーンズパティ・スミスといったNYパンクを代表するアーティスト、それからトーキング・ヘッズブロンディといったNYパンクからニュー・ウェイヴに転身し商業的成功を収めたアーティスト、彼らは皆CBGBから頭角を表していきました。

NYパンクの音楽的性質

ここで音楽的にNYパンクを見つめてみましょう。まずはテレヴィジョンの傑作、『マーキー・ムーン』より表題曲を。

Marquee Moon
アルバム『マーキー・ムーン』表題曲は、10分以上にわたる大作です。印象的な反復されるギターは無情ながら、そこにはロックの情熱が鬱屈した形態で表現されています。ヴェルヴェッツに端を発するニューヨークのアンダーグラウンドなロック、その1970年代版という趣の傑作。

「パンク」と聞いて想起される「パワー・コードをかき鳴らし反抗的な歌詞を吐き捨てる」、そういった直線的なイメージとは相反するものであることがお分りいただけるかと思います。むしろ、思索的芸術的な印象でしょう。

ロックが失いつつあった革新性を、ヴェルヴェッツ由来のアンダーグラウンドなスタイルで表現しているのです。そう、ヴェルヴェッツもパンクの重要なインスピレーションであることをここで付記しておきます。

一方で、先に触れた直線的パンクのイメージもNYパンクにルーツがあります。ラモーンズの1stより『電撃バップ』です。

Blitzkrieg Bop
アルバム『ラモーンズの激情』より、オープニングの『電撃バップ』。技巧的な演奏や現実離れしたスケール感、如何にも凝ったサウンドスケープ、そういったものはこの楽曲には全く介入せず、正に激情の赴くがままにストレートなロックンロールをかき鳴らす様は非常に痛快。現代においてなお痛快なのですから、1970年代においては一入でしょう。

レザー・ジャケットにジーンズという衣装、ジョニー・ラモーンの頑ななダウン・ストロークによる推進力のあるサウンド、これぞまさしくパンクというスタイルです。

この徹底的なシンプルさ、ギターを手に取りさえすれば誰にでも表現できると思わせてしまうほどの親しみやすさ。ロンドン・パンクにおいて絶えずラモーンズのスタイルが参照されていたのは、彼らの音楽が持つ再現性の高さが所以でしょう。

あるいは歌詞表現に目を向けるとどうでしょうか。パティ・スミスの『グロリア』を例に挙げてみます。

Patti Smith – Gloria (Audio)
パティ・スミスは当初ミュージシャン志望ではなく、絵画に関心を示す少女でした。「ボブ・ディランの愛人」という大それた夢を抱きアーティストのコミュニティに属する過程で、彼女の表現意欲は覚醒します。彼女の詩才はしばしばそのディランにも匹敵するロック最大の表現と絶賛され、その貢献から「パンクの女王」の名をほしいままにしました。

Jesus died for somebody’s sins but not mine

Meltin’ in a pot of thieves

Wild card up my sleeve

Thick heart of stone

My sins my own

They belong to me, me…

キリストは誰かの贖罪のために死んだ、だがそれは私の贖罪ではない

盗人のるつぼに落ちていく最中にも

私には切り札がある

冷たく強靭な我が心

私の罪はただ私だけのもの

その罪は私のものなのだ……

『グロリア』より引用(抄訳:ピエール)

ブルーアイド・ソウル・グループ、ゼムのヒット曲のカバーでありながら、この苛烈な歌詞を冒頭に持ち出す表現性の発露たるや。

難解な詩ではあるものの、そこには若者の苦難や歪んだ自己愛、そうした生々しい感性が芸術に拡張されて表現されています。この質感も、やはりロックが失いつつあったものです。

このように、ロックが1970年代の大成功と引き換えに見失ってしまった表現の本質、これを斬新さを伴ってことごとく復刻させたのがNYパンクなのです。この重要性は、これまでの本シリーズをお読みいただければたやすく理解できるかと思います。

アンダーグラウンドだったNYパンク

NYパンクが極めて重要な潮流である、それは今お話しした通りです。

しかしながら、NYパンクは国内市場において商業的成功を収めることはありませんでした。この点も、NYパンクを理解する上で重要な事実。その要因について少しだけ。

アメリカの音楽産業はそもそも、保守的な性格があります。それは国外の音楽を頑なに拒んできた「英国侵略」以前に顕著ですし、現代のヒット・チャートや賞レースにおいてもそれは引き継がれていると理解できます。

『ペット・サウンズ』ヴェルヴェッツの1stといった今日歴史的傑作と見なされる作品はチャート・アクションにおいては冷遇され(ヴェルヴェッツの1stは僅か3万枚しか売れなかったとされています)、ザ・ストロークスのようにシーンを変革させる存在はひとまずイギリスでの成功によって逆輸入される例もしばしば。

また音楽の発信の側にあっても、ロックンロール誕生というビッグ・バン、あるいはヴェルヴェッツの登場を除き、1970年代までのロックの通史はイギリスを中心にして形成されてきたという事実があります。

そうした状況下で、ロックの本質を革新性によって表現したNYパンクが成功を収めるのは困難でした。ロンドンでパンクが一大旋風を巻き起こす一方、アメリカではとうとう大きなヒットを記録することなくNYパンクは鎮火してしまいます。

余談ですが、パンク勃興から15年余り後に、「パンクをUSチャートに送り込む」と豪語した1人の男が現れます。その男の不敵な宣言によりアメリカでパンクはようやく商業的成功を勝ち取るのですが、それはまた別のお話……

まとめ

今回の内容をまとめておきましょう。

  • パンク成立の背景には、1970年代における巨大な成功の代償にロックが表現としての本質を失ったこと、そしてロックが万人の表現としての再現性が低下したことが要因として挙げられる。
  • パンクは1960年代後半に起こったガレージ・ロックのや、ニューヨーク・ドールズの過激なステージングを重要なインスピレーションとした。
  • ニューヨークのライヴハウス、CBGBから多くの先進的なパンク・アーティストが登場。NYパンクとしてロックの本質を表現した。
  • NYパンクは商業的成功を得ることはなく、あくまでコアでアンダーグラウンドな表現に終始していた。

本来であればこのセクションでパンク・ムーヴメントは全て解説する予定だったのですが、余りに長大になりすぎる懸念から初の前後編としました。それほどに詳細に語るべき重要なトピックであることは繰り返し主張しておきます。

次回はパンク後編、いよいよパンクが海を渡り、ロックの中心地イギリスはロンドンに輸入されていきます。そこには当時のイギリスが抱えていた病理や、ある男の狡猾な目論見があったのですが。

そうした背景にも依然として目配せしつつ、ロンドン・パンクの動向を解説していきたいと思います。それでは、後編をお楽しみに。

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