今回も1970年代洋楽史解説。バックナンバーはこちらのカテゴリ「1970年代洋楽史解説」から。お時間のある方は前シリーズにあたる「1960年代洋楽史解説」もあわせてどうぞ。
さて、本シリーズでは過去3回にわたって1970年代初頭のUKロックの様子を中心的に扱ってきました。それはすなわちロック全般の様子とも言えるのですが。
今回からしばらくはロックから距離を取った解説になるかと思います。あくまで本シリーズは「音楽史」解説であって「ロック史」解説ではありません。
ではロック以外に見るべきテーマはといえば、ブラック・ミュージックです。ソウル/R&Bであったり、ファンクであったり、あるいはジャズであったり。
1960年代において、このジャンルは進歩的なサウンドではありませんでした。むしろ堅実に、優れた音楽を多く発表していたと評価できるでしょう。
しかし1970年代に入ると、ロックの激烈な進化に感化されるかのようにブラック・ミュージックも様々な変貌を遂げていきます。
今回はその歩みの1つ、ソウルの展開を追って行きましょう。それでは前置きもそこそこに、参ります。
モータウン・アイドルからメッセンジャーになったマーヴィン・ゲイ
このセクションで真っ先に語るべき存在はやはり彼。マーヴィン・ゲイです。
彼はモータウンに所属するアーティストで、1960年代に数々のヒットを飛ばしたモータウンの看板アーティストの1人でした。
さて、1960年代洋楽史解説§1.で軽く解説しましたが、今一度モータウンについて見ておきましょう。
1960年代初頭にデトロイトで興ったインディーズ・レーベルであるモータウンは、それまで主として黒人層に愛好されてきたソウル/R&Bを白人層にもリーチすることに成功します。
野生的なブラックネスではなく、甘いメロディや洗練されたサウンド、華々しいシンガーを擁することで商品としてのブラック・ミュージックの存在感を知らしめたのです。
その一方で、非常に専制的なスタイルを取るレーベルでもあり、作曲チームと演奏チーム、そしてシンガーという分担が徹底して行われ、アーティストの主張や自由な表現にはかなり後ろ向きだったのも事実。
その中でゲイは、いち早く自身の表現を追究することを望むようになります。
1971年に発表された『ホワッツ・ゴーイン・オン』は、その彼の追究の第一歩でありその頂となる作品。
泥沼化するベトナム戦争をはじめとしたアメリカという国家の抱える病理、そして愛や信仰といったパーソナルな主題を軸とした本作は、モータウンの分業制に逆らったセルフ・プロデュース作です。
また、『ホワッツ・ゴーイン・オン』がコンセプチュアルな「アルバム作品」として発表されたのも重要。モータウンはシングルを主体に発表してきたレーベルでしたから、アルバムを作品の最少単位と見なす『サージェント・ペパーズ』由来の価値観が持ち込まれたことは異例だったのです。
この作品の発表に、当初モータウンは難色を示したと言います。それもそのはず、シンガーによる自発的な音楽表現はモータウンの方針とは対立するものでしたし、『ホワッツ・ゴーイン・オン』が放つシリアスなオーラは商業としてのブラック・ミュージックとはかなり毛色の違うものですから。
レーベルの反対を押し切って発表されたこのアルバムは、しかし全米で大ヒットを記録します。
このヒットは、当然マーヴィン・ゲイの才能の賜物とも評価できる一方で、社会的な視座やアルバムとしての構築の妙といった本作の個性が時代性に呼応した結果とも言えるのではないでしょうか。
目覚ましい進歩を遂げるロック、その変貌を目の当たりにしていたリスナーはブラック・ミュージックにもそうした進歩を望んでいた。それに見事応えた作品が、この『ホワッツ・ゴーイン・オン』だったのです。
アフリカン・アメリカンの主張としてのニュー・ソウル
さて、この『ホワッツ・ゴーイン・オン』は以降のブラック・ミュージックの歩みを決定づけるマイルストーンとなっていきます。
モータウンに限らず、それまでのソウル/R&Bには主張やアーティスティックな表現というのは希薄でした。勿論サム・クックやジェームス・ブラウンのような例外はいますが、傾向として。
しかしマーヴィン・ゲイが「表現としてのソウル」を開拓せしめたことで、こうした傾向には変化が訪れます。
そうした、表現にフォーカスをあてたソウルがこの時期に芽吹くことになります。そうした音楽は、これまでのソウルと区別して「ニュー・ソウル」、その名の通り新しいソウル・ミュージックとして広がっていくのです。
そしてこと日本では、このニュー・ソウルの中心的存在だった4人のアーティストを総称して「ニュー・ソウル四天王」という表現が度々使われます。
「3大ギタリスト」と同じく日本独自のカテゴリではあるものの、この四天王それぞれについて見ていくのは概論の進行として適切ですので、ここからは既に見ていったゲイを除く3人について。
スティーヴィー・ワンダー
ニュー・ソウルにいち早く反応したのが、ゲイと同じくモータウンに所属していたスティーヴィー・ワンダー。
彼は11歳の時にショウビズの世界の扉を叩いたチャイルドスター。幼少期から優れた音楽的才能を持ってはいましたが、その才能はモータウンのシステムの中で飼い殺しにされてきました。
しかしゲイがセルフ・プロデュースによる作品を発表したことで、彼もまた自身の才能と表現を追究していくように。
モータウンにとっても『ホワッツ・ゴーイン・オン』の成功があった以上、過度にアーティストを束縛することは困難になってきました。そうして自由を手に入れたワンダーは、いよいよ天才アーティストとしてそのヴェールを脱ぐことになるのです。
『青春の軌跡』で作品のプロデュース権を獲得したことを皮切りに、『心の扉』、『トーキング・ブック』、『インナーヴィジョンズ』、『ファースト・フィナーレ』、そして『キー・オブ・ライフ』といった優れた作品を次々に発表。
当時最先端の楽器だったモーグ・シンセサイザーの積極的導入や、ファンクやロックへの接近。そうした彼の自由な創作は、やはりゲイ同様高い評価と商業的成功を収めます。
その有り余る才能と創作意欲は、ソウルの深化を大いに牽引していきました。マーヴィン・ゲイを先達としつつも、ニュー・ソウルの震源地はむしろワンダーだと言えるのかもしれません。
カーティス・メイフィールド
さて、ここでモータウン以外の動向も追いかけましょう。
1960年代に活躍したR&Bグループ、ジ・インプレッションズ。彼らは社会的なR&Bという表現にも早くから積極的で、『ピープル・ゲット・レディ』を筆頭に公民権運動の流れを受けて一連のヒットを記録しました。
そのグループから脱退し、1970年代にソロ活動を開始したのがカーティス・メイフィールドです。
自身の名を冠したソロ1st『カーティス』、そして同名映画のサウンドトラックである『スーパーフライ』で立て続けにヒットを記録。彼もまた、ニュー・ソウルの巨人として高い評価を集めます。
ここでゲイやワンダーとの相違点を挙げるならば、メイフィールドはより「アフリカン・アメリカン的」という点でしょう。
当然ゲイやワンダーもアフリカン・アメリカン特有の感性に基づいた音楽を発表していますが、彼らは古巣モータウンのモードをある程度継承した、親しみやすいポップネスも打ち出しています。
しかしメイフィールドのサウンドは、より野生的で黒々としたもの。同時代のファンクをより直接的に吸収し、力強い黒人のプレゼンスを示しています。
文化史全般と紐づけるとすれば、映画『スーパーフライ』はブラックスプロイテーションという映画ジャンルに位置する作品です。
これは白人層が支配的だった映画産業の中で、制作においても顧客層においてもアフリカン・アメリカンを中心にした一連の作品を示すジャンルです。これはアフリカン・アメリカンのエンパワメントという文脈の中で重要な意義を持つ文化潮流。
その中でのメイフィールドの存在、これはニュー・ソウルにも見られる「アフリカン・アメリカンの表現の伸長」において意義深いことと言えます。
同じくブラックスプロイテーション作品『黒いジャガー』のサウンドトラックを発表したスタックス・レーベルのアイザック・ヘイズと合わせて、1970年代史を議論する上で音楽に制限されない重要性を示すトピックでしょう。
ダニー・ハサウェイ
「四天王」最後の一角はダニー・ハサウェイ。
彼の個性として挙げられるのは、名門ハワード大学で学んだ音楽理論に裏付けられた洗練されたサウンド。
1960年代までのソウル/R&Bの作曲というのは、基本的に高度な教育やアカデミックな理論に基づくものでなく、あくまで感性や伝統的技法による原始的な才能によるものでした。ソウルを発明したレイ・チャールズに始まり、JB、それからモータウンの作曲チームH-D-Hはその一例でしょう。
それは断じて音楽的に粗暴であることを示唆するものではありませんが、そうしたソウル/R&Bの世界にハサウェイの理知的な作曲は新たな基軸をもたらします。
高度な教育を受けたアフリカン・アメリカンという存在そのものも、もしかしたら時代性の反映と言えるのかもしれません。事実ハサウェイは、キング牧師の暗殺に感化され、同時に大衆も彼を新たなニグロ・アイコンとして受け入れます。
黒人社会の病理に切り込んだシリアスな名曲『ザ・ゲットー』で一躍時の人となったハサウェイは、同じくニュー・ソウルの偉人ロバータ・フラックとのデュエットでも評価を得ました。
キャリアが短かったことから他の3人に比べてやや影の薄い彼ですが、その音楽の魅力とキャラクターの意義というのは高く見積もるべきでしょう。
堅調的なソウルの歩み
ここからはやや視点を変えましょう。
当然1970年代のソウル/R&Bを論じるにあたってニュー・ソウルは最重要事項。ですが一方で、誰も彼もがニュー・ソウルに傾倒した訳ではありません。
1960年代同様、堅実で大衆的なサウンドを維持したソウルも多く存在しました。もちろんそれらも、一定の進歩と変化を受け入れたものではあるのですが。
ここからは少し論調がよれることを承知で、同時代の他のソウルに関しても軽く言及していきます。
1970年代のモータウン
まずはソウルの代名詞、モータウンについて。
先述の通りモータウンは専制的なプロダクションによって数多くのヒットを飛ばしますが、ゲイやワンダーの音楽的独立によって以前のようなスタイルを維持することは難しくなってきました。
また、ザ・スプリームスやザ・テンプテーションズのような1960年代モータウンを代表する看板グループの人気もかつてほどの勢いを失い、「ヒット生産工場」としての存在感を失いつつあったのは事実。
そのモータウンを救ったグループこそ、若き日の「キング・オブ・ポップ」、マイケル・ジャクソン擁するザ・ジャクソン5でした。
かつてポンパドゥールのガールズ・グループや誂えのスーツを身にまとったメイル・グループでヒットを飛ばしたモータウンは、ボーイズ・グループという新たなスタイルを打ち出して成功を収めたのです。
ザ・ジャクソン5のサウンドはこれぞモータウンといった堅実なポップネスにこそ溢れていますが、少年が歌うことを念頭に置いた可愛らしく弾けるような印象のもの。
1960年代のヒット曲の焼き直しではなく、新たなスター、新たなニーズに応えたことでモータウンは息を吹き返します。
ライオネル・リッチー率いるザ・コモドアーズもやや遅れてモータウンからデビュー。モータウンは1970年代から1980年代にかけてのR&Bシーンで、再び存在感を示していくのです。
フィリー・ソウル
そして1970年代の堅調的ソウルにおいて忘れてはならないのが、フィリー・ソウル(フィラデルフィア・ソウル)の存在。モータウンやニュー・ソウルの勢力と拮抗するセールスを獲得した、ソウルの一大ジャンルです。
その名の通り、アメリカ東部有数の都市フィラデルフィアで勃興したこの音楽性は、ストリングスを効果的に取り入れた洗練された都会的なモードを特徴とします。
その耳ざわりの良さはある意味では1960年代モータウンと地続きにも評価できますが、そちらと比べるといくばくかブラックネスが芳醇に感じられるのが個性でしょうか。
ジ・オージェイズやザ・スタイリスティックスのようなヴォーカル・グループがヒット・チャートを賑わせ、ソウル・ミュージックを体現し続けたTV番組『ソウル・トレイン』のテーマも、フィリー・ソウルのハウス・バンドMFSBによるものです。
ブラック・ミュージックの流行は1970年代中盤からファンクを源流とするディスコへと移り変わっていくため、今日においてフィリー・ソウルを取り上げる機会も多くはありませんが、1970年代初頭のソウルを語る上で避けては通れないでしょう。
まとめ
- ロック音楽の進歩に感化され、ソウル/R&Bの世界でもより発展的な表現が模索される。
- モータウンのシンガー、マーヴィン・ゲイがセルフ・プロデュースによるアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表。アフリカン・アメリカンの表現の嚆矢となり、ニュー・ソウルが展開される。
- スティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールド、ダニー・ハサウェイらがこのムーヴメントに呼応。よりアーティスティックで新機軸のソウルが次々に生まれる。
- 一方で同時代にはモータウンやフィリー・ソウルといった堅調的なソウルも人気を博す。
今回の内容を要約するとこういったものでしょうか。
ソウル/R&Bは、もはや今日のシーンにおいてロック以上に重要な音楽ジャンル。そして、その今日のシーンを形成するに至ったのは、今回解説したテーマの貢献が大きいのです。
ロック史一般を論じるメディアはよく目にしますが、むしろ現代の観点から音楽史を論じるならばこここそが肝要。勢い余ってかなりの文字数を割いてしまいましたが、それほどに重要だということはご理解いただけると。
さて、次回もブラック・ミュージックに関して。1960年代末に勃興したファンクの、1970年代における歩みを観察していきます。それでは次回、「ファンクからディスコへ〜リズムの極意はダンス・ホールへ〜」でお会いしましょう。
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