
1980年代洋楽史解説という大きな山を超えたので、息抜きがてら本日は久方ぶりのアルバム単体でのレビューをば。扱うのは泣く子も黙る大名盤にして記録的なロング・セラー作品、ピンク・フロイドが1973年に発表した『狂気』(原題:“The Dark Side Of The Moon”)です。
ただ、今回はちょっとこれまでのレビューとは毛色を変えてみようと思います。私がこの作品に出会って以来長らく抱えている1つの疑問がありまして、それというのが投稿のタイトルにもあります「『狂気』って全然プログレじゃなくない?」というものです。これ、ブログでもXでも折を見て言及しているんですがね。
そして、個人的な2025年のモードが「好きなものを好きでい続ける努力」でして。で、その一環でプログレへの情熱をもう一回見つめ直そうと。今年中にプログレ名盤100選なんて企画をやろうかとも思ってるんですが、そうするとやはりこの疑問に私の中で答えをはっきり出しておきたい。
ということでこの記事をしばらく前から練っていたんですが、なんと今日、3月1日は『狂気』のリリース・デイだったらしく。これはちょうどいいタイミングということで投稿させていただきましょう。
当然作品の内容についてもしっかり踏み込んでいきますが、そのうえで「『狂気』はプログレではない」説の立証を目指してこの傑作を紐解いていこうと思います。それでは参りましょう。
『狂気』までのバンドの歩み
まずはここからです。ピンク・フロイドが『狂気』へと至る過程。この辺オールド・ロックを好まれる方なら教養として理解されている部分だとは思うんですが、折角なので改めて。
ピンク・フロイドの結成は1967年。ロックの歴史における屈指の当たり年と名高い1年です。この年に起こったトピックとしてジミ・ヘンドリックス、ザ・ドアーズ、クリームといったサイケデリック・ロックの担い手達の登場というものがありますが、そうしたムーヴメントの中でピンク・フロイドはシーンに現れます。この辺の動向は以前↓の投稿で詳しく語っているのでよろしければ。
さて、デビュー当時のラインナップはロジャー・ウォーターズ (Ba.)、リック・ライト (Key.)、ニック・メイスン (Dr.)、そしてシド・バレット(Vo./Gt.)という編成。バンドのリーダーはバレットでした。彼が主導して制作された1st『夜明けの口笛吹き』(原題:“The Piper At The Gate Of Dawn”)は、1967年の空気をたっぷり吸い込んだサイケの名盤として誉高い1枚です。
しかしサイケデリック・ロックという特質上やむを得ないのかもしれませんが、バレットはLSD中毒の中で徐々に正気を失っていきます。バンドはバレットのステージ・パフォーマンスは困難と判断し、サポート的に旧知の仲だったギタリストのデヴィッド・ギルモアを加入させますが、ほどなくしてバレットはいよいよ廃人に。2枚のソロ作品を残して彼は表舞台から去ってしまいます。
こうして決してポジティヴとは言えない状況ではありますが、ウォーターズ、ギルモア、ライト、メイスンの4人体制でピンク・フロイドは再始動することに。彼らは天才シド・バレットの幻影を追おうとはせず、新たなアプローチを試みていきます。偶然の一致かはたまたバンドの嗅覚の賜物か、それはちょうど、人々がサイケの狂熱から醒めていった時期と符合しているんですが。
1970年代初頭に発表された『原子心母』(原題:“Atom Heart Mother”)、『おせっかい』(原題:”Meddle“)といった作品群によって、ピンク・フロイドはバレットの不在を見事に振り切っていきます。これらの作品に共通するキーワードは実験精神や独創性。これらはまさしく、サイケの革新の延長線上で芽吹いたプログレ・ロックの一派が目指した表現と合致します。
そしてピンク・フロイドはその創作の極みへと至るのです。これまでに培った表現性をさらに発展させ、1つのコンセプトによって統率された厳然たるアルバム作品へと。そう、それこそが『狂気』。
『狂気』解説
ではここからは実際に『狂気』というアルバム作品を紐解いていきましょう。いつものレビューだとここのところに本腰を入れるんですが、今回は比較的さらりと確認していければ。大きく分けて2つの観点から見ていきましょう。
比類なき「コンセプト・アルバム」
まず本作を語る上で外せないのが、「人の心の内に狂気」を描くというコンセプト。原題”The Dark Side Of The Moon”は「月の裏側」、誰にも見ることができず常に暗闇に包まれた深淵はまさしく狂気を比喩的に表していますし、そのテーマを汲み取って邦題をそのものズバリ『狂気』としたのは見事な采配です。
ただ、『トミー』や『ジギー・スターダスト』といった物語調のコンセプト・アルバムとは異なり、『狂気』はもっと散文的なんですよね。一応主人公らしい存在はいるものの、楽曲によって登場するモチーフは様々です。例えばそれは無為に過ごす時間の残忍さ(『タイム』)であったり、戦争や支配、そして人生そのものへの諦念(『アス・アンド・ゼム』)であったり。
これらを抉るようにクリティカルな筆致で描くのが、ロジャー・ウォーターズの作詞。『狂気』の巨大な成功以降味をしめ、バンドは彼の独裁状態に向かってしまいとうとう分裂してしまう訳ですけど、こんな表現力を発揮できるのであれば独裁したくなる気持ちも分からないではないです。それくらい、この作品において彼の思索の貢献は大きいですから。その点でのハイライトは『狂人は心に』から『狂気日食』、作品のフィナーレに集約されています。
ただ、それだけではあまりに抽象度が高すぎる。本作をコンセプト・アルバムたらしめる最大の仕掛けは、楽曲間に一切の区切りがなく、連作的に駆け抜けてゆく構成にあります。厳密にはレコードA面/B面、楽曲で言うと『虚空のスキャット』と『マネー』の間には当時の技術上不可避の空白はあるんですけどね。
組曲的な形式の展開やアルバムというのは他にもありますけど、『狂気』はあくまで楽曲そのものは独立しているんですよ。そのうえでシームレスに仕立て上げ、かつそれが強引に聴こえない。「実際には月の裏側なんてものはない、ただすべてが暗闇に呑まれているというだけ」という独白の瞬間まで、その難解な旅路は粛々と進行し続けています。『サージェント・ペパーズ』以降顕著になった「アルバム文化」の中でも、トータリティーへの意識という点では本作が最高峰でしょう。
そしてサウンドの点からのコンセプトの表現に着目すれば、随所で飛び交うエフェクトについて語らないといけませんね。『タイム』であれば劈かんばかりの時計のベルの音、『マネー』であればレジスターの音、これらは楽曲のテーマを聴覚的に明確にしていますし、そうでなくとも話し声のような音楽外の情報によって、作品全体に統一感と不穏な空気を纏わせることに成功しています。
さらにバンド・サウンドの外側での表現というところでいうと、『虚空のスキャット』で聴くことのできるクレア・トリーの見事なスキャット、あるいは『マネー』と『アス・アンド・ゼム』でのディック・パリーの吹くサックス、この辺りの客演にも積極的なんですよ。
ピンク・フロイドって『原子心母』で外部作曲家を参加させているように、元々その辺りにはオープンな作風ではあったので。決して本作だけの特例ということではないんですが、でもここまで大々的にフィーチャーするのは大胆ではありますよね。バンド4人で鳴らせる音の範囲で妥協しないという意識の表れなんでしょう。
バンド・ミュージックとしての『狂気』
じゃあ本作がプロダクション先行かというとそうでもなくて。しっかりバンド・ミュージックとしても上質なんですよ。皮肉なことに、世界観に貢献したウォーターズはプレイヤーとしてはやや地味な存在でね。『マネー』での素晴らしいベース・リフこそあるものの、その他ではアンサンブルを支える名脇役といった立場に専念している印象です。
ではプレイ面で誰が最も目立つかというと、それはもう当然ギタリストのデヴィッド・ギルモアです。やはりロックの花形は、少なくともこの時代にはギターですから。個人的に最愛のギタリストの1人でもあるんですが、その根拠が『狂気』にもたっぷり収められています。
一般に本作でのギルモアのベスト・プレイとなると、『タイム』や『マネー』でのソロ、ブルース由来の所謂「泣きのギター」に分類できるエモーショナルなそれに注目がいきますよね。それ自体なんら間違ってはいないし、後の『クレイジー・ダイヤモンド』や『コンフォータブリー・ナム』に繋がるものとしても重要です。
そのうえで注目したいのが、彼の脱ブルース的な側面。エフェクティヴで音響的なギターの操り方です。ロック・ギターからブルースの要素が減退していくのはパンク以降の話だと思ってるんですが(その転換点にテレヴィジョンの『マーキー・ムーン』があるというのが私の持論です)、ギルモアは先んじてポスト・パンクなギターを鳴らしていますよ。
それが顕著なのが、ボトルネック奏法やヴァイオリン奏法を駆使した『生命の息吹き』。テープ・コラージュの『スピーク・トゥ・ミー』から繋がる作品のオープナーにあたる楽曲ですが、このギター・プレイで『狂気』のミステリアスな底知れなさを見事に提示していますね。
ただ、ともするとギルモア以上にそれぞれの楽曲のカラーを決定づけているのは、リック・ライトのキーボード・プレイ。ときにセンチメンタルでときにスペーシーなサウンドの巧みさは、流石はサイケデリック・ロックが出発点なだけありますね。
全編通してキーボードやシンセサイザーが重要な作品なのでライトの鍵盤はフル稼働していますが、とりわけインストゥルメンタルの『望みの色を』でのプレイなんて最高ですよ。かのヒプノシスが手がけた象徴的なプリズムのアート・ワーク、あそこから放たれる虹色の光線をそのまま聴覚化したような幻惑的でカラフルな素晴らしい瞬間です。
そしてそれらを上手く接続していく、ニック・メイスンのドラム。ここってあまり語られないんですけど、ピンク・フロイドという「ロック・バンド」を語る上で彼の功績はあまりに巨大です。
思うに、サウンド全体に奉仕するドラムを叩くプレイヤーなんですよね。ゆったりとしたタイム感はサウンド/歌詞両面で主張の激しい本作の屋台骨として申し分ないですし、かと思えば『タイム』のイントロでのタム回しなんてのは過ぎ行く時の足音を表現するかのよう。そこからシンプルなフレーズで硬い8ビートにチェンジするさりげなさもいいセンスです。
ギルモア/ライトの両名がトリッキーなプレイをする中、メイスンは一貫してオーソドックスなんですよ。差し込まれるフィル・インだって手堅いフレーズが多いですしね。でも、それがいちいち気が利いているし、楽曲のダイナミズムに大きな役割を果たしている。
『狂気』が普遍的な名盤として成立してるのは、こうしたバンド・サウンドで聴かせる、実のところスタンダードなロック・アルバムでもあるからだと思うんですよね。これ、この後の話にも関わってくる部分なので意識してくれると嬉しいです。
「『狂気』はプログレじゃない説」の検証
音楽性としての「プログレ」との比較
お待たせしました、ここからがこの投稿の本題です。「『狂気』はプログレではない」説を検証していきましょう。
『狂気』という作品についての確認は既に済ませたので、次に見るべきはプログレとは何ぞや?という点ですね。この辺は以前に
こんな投稿や
あんな投稿で語っていますから、ここではあくまで音楽ジャンルとしてのプログレの特徴について。箇条書きすればこんな感じでしょうか。
①曲が非常に長大、あるいは組曲の形式を取る大作主義の傾向が見られる
②コンセプト・アルバムの形態を取ることが多い
③クラシックやジャズといったポップス外の音楽性を導入している
④変拍子や即興演奏、転調のような技巧的な演奏や構成を強みとする
これら全てが当てはまる必要はないにしろ、今日我々が想像するプログレはだいたい上記の特徴を複数個は持っていると思います。では、これらと『狂気』を比較するとどうか。
①に関しては早速で恐縮ですが微妙なラインなんですよね。楽曲自体は決して長くないんですが、さっきも触れた通り『狂気』はレコードA面/B面という物理的な区切り以外に曲間というものが設定されていません。これを広い意味での大作主義と捉えるならば、合致すると言えなくもないでしょう。
ただ、『ジェラルドの汚れなき世界』や『チューブラー・ベルズ』のようなアルバムに1曲だけ!みたいなスタイルとは若干毛色が違うのも事実。あくまで楽曲の音楽的なアプローチは様々ですからね。
なので、これはどちらかというと②に付随して生まれた類似と見るべきでしょう。人間の裏側に潜む狂気というコンセプト、これをより克明に描くがための連作的な作風。
ただこれもイチャモンのようですけど、このコンセプト・アルバムというのは何もプログレの特権ではありません。先ほど名前を挙げた『ジギー・スターダスト』や『トミー』のようにプログレ外のジャンルにもコンセプト・アルバムの傑作は多々ありますし、そもそもが1970年代ロックにおける1つの定型ですらある訳ですから。
続いて③、ここからが肝心だと思います。ELPやニュー・トロルスが打ち出したクラシック音楽由来のシンフォニックな荘厳さ、あるいは『太陽と戦慄』以降のキング・クリムゾンやカンタベリー派に見られるジャズの成分、これらは『狂気』にはほとんどありません。『虚空のスキャット』が辛うじてジャズ的と言えるくらいかな。
これ、『狂気』のコンセプトを考えれば当然のことです。クラシック音楽に接近するとファンタジックな世界観になるし、ジャジーなプログレは無機質なテイストになりがち。あくまで『狂気』は写実的なテーマを生々しく描写したがっているんですから、これらは方向性として噛み合いません。
それにさっきちらっと書きましたが、ギルモアのギター・プレイ、そこにはしっかりブルースが根付いていますから。プログレ界における名ギタリスト、ロバート・フリップにしろスティーヴ・ハケットにしろスティーヴ・ハウにしろ、彼らは所謂ロック・ギター的なアプローチはあんまりしないでしょ?その点でも距離があるんですよね。
④に関しても同様です。さっき確認したようにフロイドは演奏が面白いバンドではあるんですけど、他のバンドと比較するとベーシックなサウンドを聴かせるタイプなんですよ。そのうえで、『狂気』の場合はありったけのサウンド・エフェクトを装飾としているので、演奏で聴く者を圧倒する作品ではないと思います。
……さあどうでしょう、ご覧の通り、『狂気』の性格はプログレの音楽的特徴とはほとんど合致しないという結果に終わりました。どうやら「『狂気』はプログレではない」説は、音楽性の観点からすると一定の妥当性があると言ってよさそうです。
なぜ「プログレ」とされているのか
じゃあ、何故リリースから50年以上もの長きにわたって、この『狂気』なプログレの傑作とされ続けているのか?ここを考えていきましょう。私が思うに、その理由は2つ。
①「プログレ」だった時期もあるから
まずはここかな。前半でフロイドの歩みを確認した際に登場したギルモア加入後の諸作、『原子心母』や『おせっかい』、この辺は相当プログレ的なアルバムなんですよ。
前者の表題曲『原子心母』はレコードA面を使い切る大作で、前衛音楽家ロン・ギーシンの手によるオーケストラ・アレンジを加えたシンフォニックな作品。そして『おせっかい』には、こちらはB面を使い切る『エコーズ』が収録されています。この『エコーズ』、スペーシーで幻想的なサウンドの中展開される即興的な演奏によって圧倒するプログレの大名曲です。
で、そんな流れの中で発表されたのが『狂気』な訳です。言い換えれば、ピンク・フロイドはプログレ・バンドだというイメージが浸透した後の作品。その意識が『狂気』にも及んでしまったのではないかと考えています。でも、『狂気』以降ピンク・フロイドがプログレっぽいサウンドに手を出すことってなかったんですよ。
次作『炎〜あなたがここにいてほしい』(原題:“Wish You Were Here”)には組曲『クレイジー・ダイアモンド』がありますけど、あの曲の内容って実は壮大なギター・バラードですし。なんなら『アニマルズ』なんてハード・ロック的な瞬間すらあるし、集大成の『ザ・ウォール』は1979年というタイミングもあってまったくプログレしてません。
それにもっと遡ってやれば、フロイドはキャリア初期はサイケやってた訳でしょ?つまり、彼らはプログレ・バンドではなく、「プログレをやってた時期もあるバンド」と見るべき。そういう意味では、フォークやハード・ロックもやりながらプログレに寄り道してたジェスロ・タルなんかに近い性質のバンドなんですよ。
②「プログレ」ではないが「プログレッシヴ」ではあったから
そしてもう1つの理由がこれ。個人的にはこっちの方が理由としては大きいと思います。『狂気』って「プログレ」作品ではないけど、「プログレッシヴ」な作品ではあるんですよ……何言ってんだこいつってなりますよね。
お気づきの方がいたか分かりませんが、この投稿内で私はここまで一度も「プログレッシヴ・ロック」という表現を用いてきませんでした。一貫して「プログレ」と書いていたんですね。
この手の略語を文章で使うのは正直言って好きじゃないんですけど、でも今回ばかりはそうしないといけなかった。何故か?「プログレ」と「プログレッシヴ・ロック」で、受ける印象が変わってしまうからです。
プログレの正式名称、それはもちろんプログレッシヴ・ロックです。さっき引用した私の記事でも書いてますけど、ポスト・サイケの時代により前進的な、プログレッシヴなロックを志向したバンドたちが構築していったムーヴメント、ゆえにプログレッシヴ・ロック。
でも、最早「プログレ」はプログレッシヴではないんです。さっき確認したように、特定の音楽的な性格を共有する音楽ジャンルの1つとして、記号的に用いられる語彙になっている。そしてその定型や様式美というのは、いっそコンサヴァティヴとすら言えるものでしょう。
これ、別にプログレを批判している訳ではありませんよ。如何なるジャンルにもそうした「お約束」はありますし、私はその「お約束」を愛してやまないんですから。あくまで指摘したいのは、プログレが語義通りにプログレッシヴな音楽という意味では必ずしもないという事実です。
で、ここで話題を『狂気』に戻しまして。コンセプト・アルバムという流行にこそ乗っかっていますが、そのコンセプトにしろサウンド・アプローチにしろ、当時あったどのロックにも似ていない、極めて画期的な作品です。つまり、プログレッシヴなロックでは間違いなくある。
「プログレッシヴなロックなんだから、『狂気』はプログレだ」、こう考えるのは一見自然ですよね?でも今指摘したようにプログレ≠プログレッシヴなんですから、このロジックは少なくとも私の中では成立し得ない。
プログレという単語をどう捉えるかのズレ、これがそっくりそのまま『狂気』という作品への認識のズレに繋がってくるんです。そしてこのズレこそが、私が長年抱える「『狂気』はプログレじゃない」問題の根幹だと、そう結論づけておきましょう。
まとめ
息抜きがてらと言いながら、結局8000字くらい書いちゃいましたね。しかも後半はいつものことながら面倒臭い話になってしまいました。お付き合いいただきありがとうございます。
ここまでの内容全部ひっくり返すような発言になっちゃいますが、別に『狂気』がプログレだろうとプログレでなかろうと、そんなの大した問題じゃありません。大切なのは、『狂気』が並外れた傑作であるということ。この作品を聴いて感動できれば、それで万事解決なんです。
ただ、古今東西の音楽を探究する中で、ジャンルというのは大きな手掛かりの1つ。そこのところを、自分の中でしっかり線を引く作業って案外大事だと思うんですよね。これはあくまで「自分の中で」ですから、私のこの主張を人様に押し付けたいとは思いませんが(でもいい線いってると思うんだよな……)。
ということで今回はこの辺りで。「プログレ100選」は……今年中にやりましょう。ええ、きっと、おそらく。生温かい目でお待ちいただけると幸いです。
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