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1980年代の洋楽史を徹底解説!§7. (最終回) 新たな黒人音楽、ヒップホップの誕生 (後編)

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またしてもご無沙汰の更新となってしまいました。本日は1980年代洋楽史解説特集、その最終回です。本シリーズのバックナンバー、及び過去に展開した1960年代/1970年代編はこちらからどうぞ。あわせて読むことをあらためて推奨させていただきます。

前回の§7.前編では、ヒップホップという新たなフォーマットが如何にして誕生したのか、この点に注目していきました。ですのでその内容は1970年代の出来事に終始していましたが、この後編でいよいよ1980年代へと足を踏み入れることになります。

クラシックの数々が産み落とされ、今日我々が思い描くヒップホップ像が確立されたのが、正にこの後編で語っていく時代のこと。しかしそこには、本シリーズのテーマでもある「光と陰の時代」の影響も確かに及んでいるのです。

不本意ながら2年もの長期連載となってしまった本シリーズの結びとしても確かな意義がある解説ですので、その点にも是非とも留意していただきたく。それでは、参りましょう。

クイーンズ/デフ・ジャム・レーベルの快進撃

前編で語った通り、『ラッパーズ・ディライト』がヒップホップ史上初となるヒットを記録し、ストリート・カルチャーだったヒップホップは突如ポップスとしての地位向上の機会に恵まれます。

となれば、当然その担い手はヒップホップ生誕の地ブロンクスで名を轟かせるDJやMC……とはならなかったのが歴史のいたずら。一般にヒップホップ初のスターと見なされている人物、それはブロンクスにほど近いクイーンズ出身のカーティス・ブロウでした。

後にヒップホップ・シーン有数の重要レーベルとなるデフ・ジャム・レコードを設立したラッセル・シモンズがプロモートを担当していたことでも知られるブロウ。彼はラッパーとしては当時異例だったメジャー・レーベルとの契約を獲得し、シングル『おしゃべりカーティス』はゴールド・ディスクに認定される快挙を達成します。

The Breaks
カーティス・ブロウによる『おしゃべりカーティス』(原題:”The Breaks”)。余談ですが、この決してスマートとは呼べない邦題から、当時の日本がヒップホップを正しく受け止められていなかったことが伝わってきます。

しかしブロウの存在感は、今日では決して巨大とは言い難いでしょう。何故なら、彼の成功に続けとばかりに登場した彼の弟分、RUN-D.M.C.が注目を掻っ攫ってしまったのですから。

シモンズの実弟ランとD.M.C.の2MCにDJのジャム・マスター・ジェイで組織されたRUN-D.M.C.は、すべての意味で画期的なヒップホップ・アーティストでした。まず第一に、彼らはクイーンズの中流階級の出身。そう、ブロンクスでないばかりか、貧民街にルーツを持ちすらしないのです。この事実は、最早ヒップホップがブロンクスのゲットーの手を離れ、より普遍的なユース・カルチャーへと発展したことを示唆しています。

そして、音楽的にも彼らは特殊でした。そのビートはアフリカ・バンバータの直系でこそあるものの、彼らは大胆にもヒップホップにロックのテクスチャを導入します。何しろ2ndアルバムのタイトルは『キング・オブ・ロック』、トラックにはハード・ロック的なギターがフィーチャーされています。

そうした音楽性を象徴するのが3rd『レイジング・ヒル』収録の『ウォーク・ディス・ウェイ』。かのエアロスミスのロック・チューンを、サンプリングどころか実際にスティーヴン・タイラーとジョー・ペリーを客演に招き、ヒップホップとして再構築しています。依然として音楽ジャンルのうえでの人種の壁が聳え立つ時代の中、RUN-D.M.C.は敢然とヒップホップとロックの融合に挑んだのです。

RUN DMC – Walk This Way (Official HD Video) ft. Aerosmith
全米4位のヒットとなったこの曲で、エアロスミスは第二の黄金期へのきっかけを掴むことに。今やエアロスミスのオリジナル以上に広く知られているのではないでしょうか。

さて、ヒップホップとロックの関係性について言及するならば、ヒップホップからロックに歩み寄った例だけでなく、反対のベクトルについても語る必要があります。ロックからヒップホップへのアプローチについてです。あるいはより単純化して、白人の側からの接近と言ってもいいでしょう。

ロック中心史観によるならば、語るべきはブロンディということになるでしょうか。ラップを大々的に取り入れ、リリックにはグランドマスター・フラッシュの名を潜ませた『ラプチュアー』の全米首位という記録。これは曲中にラップが登場する楽曲として初の達成でした。

Blondie – Rapture (Official Music Video)
この楽曲をリリースした1980年には年間1位の大ヒット『コール・ミー』も発表しているブロンディ。NYパンクをルーツに持つ彼女たちは目敏くヒップホップのスタイルを取り込み、抜け目なくヒットさせることに成功しました。

しかしブロンディはあくまでニュー・ウェイヴ・バンド。ヒップホップを導入したのも、バンドのルーツであるNYの最先端を意識したに過ぎないかもしれません。さらに端的に白人によるヒップホップを表現したのが、ハードコア・パンクからヒップホップへ華麗に転身したビースティ・ボーイズです。彼らは先ほど名前が登場したデフ・ジャム・レコード所属のグループでもあります。

元はハードコア・パンクのバンドだったビースティは、1983年にヒップホップへと転向。1st『ライセンス・トゥ・イル』は、ヒップホップ初となる全米No.1アルバムに輝きます。アルバムを再生するや否や轟くのはあのジョン・ボーナムのドラム・プレイ。ファンクやディスコのサンプリングが大多数だった中、ロックのサンプリングを得意とした彼らはより広いリスナーにヒップホップの魅力を紹介しました。

Rhymin & Stealin
1st『ライセンス・トゥ・イル』のオープナー『ライミン&スティーリン』でサンプリングされるのは、ZEPの4th収録『レヴィー・ブレイク』。この楽曲でロック・ビートでもラップできることが明らかになって以降、ボンゾのプレイはヒップホップの世界で幾度となく参照されるサンプリング・ソースになりました。

他にもデフ・ジャム・レコードからは、現在も精力的に活動を続けるLLクールJや後述するパブリック・エナミーといった重要ヒップホップ・アーティストが登場。またクイーンズであればDJのエリック・Bが天才リリシストのラキムと結成したエリック・B&ラキムは、ヒップホップのリリシズム向上に大いに貢献します。

Eric B. & Rakim – Paid In Full
ナズを筆頭に後続のラッパーから賞賛され、史上最高のリリシストとも称されるラキム。エリック・Bとのタッグで放った数々の作品は、80’sでも屈指のパフォーマンスの1つと言えるでしょう。

このように、ヒップホップ生誕の地がブロンクスであるならば、クイーンズならびにかの地にルーツを持つデフ・ジャム・レコードは、ヒップホップの音楽的拡充において見落としてはならないエリアなのです。

ニュー・スクールを呼び込んだネイティヴ・タン一派

こうしてヒップホップが発展していった1980年代、その終わりにヒップホップの音楽性の拡大において見落としてはならない1つの集団が結成されます。そう、レーベルでもグループでもなく、ただ志を同じくする者たちによって連帯した「集団」が。

1980年代末にボストンを拠点としていたデ・ラ・ソウルジャングル・ブラザーズが邂逅し、そこにラッパーのQ-Tipが紹介されア・トライブ・コールド・クエスト(ATCQ)が合流。彼らによって結成されたのがネイティヴ・タンです。

De La Soul – The Magic Number (Official Music Video)
ネイティヴ・タンによる第1号レコードとなった、デ・ラ・ソウルの『スリー・フィート・ハイ・アンド・ライジング』より。ヒップホップの硬派なイメージを覆す自然体でユーモラスなこの作品は、ヒップホップ黄金期を代表する1枚として絶賛されています。

ネイティヴ・タンの何が新しかったのか。1つには、彼らのスタイルが挙げられます。先ほど紹介したRUN-D.M.C.がその好例なのですが、ゴールド・チェーンを首に巻き、指には派手な指輪をつけ、リリックの内容だけでなく、ファッションでも自身をタフに見せるというのが一般的でした。それは貧困ゆえのゴージャスさへの憧れ、そしてストリートからのし上がったことへの誇りを意味しています。

しかし、ネイティヴ・タンは着飾ることをしませんでした。そもそもが中流階級の出身であり、ストリートの貪欲さとは距離があったからでしょう。加えてリリックもナチュラルかつユーモアを交えたもので、過激さやタフさというものは希薄です。そのうえで、アフリカ・バンバータの思想により実際的な形式で共鳴した、アフリカン・アメリカンの誇りを表現しました。

加えて、彼らはそのサウンドにおいてもそれまでのヒップホップとは一線を画しています。ファンクのサンプリングはヒップホップの常套手段でしたが、硬派なビートの借用という範囲に留まらず、総体としての肉体的なグルーヴ朗らかなムードにまで関心を向けます。あるいはATCQに顕著でしたが、ジャズのエッセンスの導入にも彼らは積極的でした。

A Tribe Called Quest – Jazz (We've Got) Buggin' Out (Official HD Video)
2ndでは既にジャズをサンプリングしていたATCQですが、1991年の3rd『ロウ・エンド・セオリー』ではジャズ・ベーシストのロン・カーターを招き生のジャズ・フレーヴァーに挑戦。見事成功し、彼らの最高傑作として高く評価されることになります。

そしてネイティヴ・タンによって、ヒップホップの歴史は二分されることになります。それまでのヒップホップはオールド・スクールと呼称され、よりレンジの豊かで自由なニュー・スクールの時代を迎えるのです。そしてそれは、今日でも「ヒップホップの黄金時代」とされる1990年代の豊かなシーンへと直接繋がっていくのですが、その話はいずれ1990年代洋楽史解説で扱うことにしましょう。

東西ヒップホップが暴く1980年代の影

さて、ここまでに見てきた動向はヒップホップがポピュラー音楽として反映し、人々に受容されながら発展していった「光」の側面。一方でこのジャンルは、本シリーズ全体のテーマでもある「光と陰」のうち「陰」にあたる性質も強く有しています。

そしてそれは1980年代において、アメリカの東西から発露することに。そう、ブロンクスに始まりクイーンズによって発展したヒップホップはついにアメリカ東海岸を離れ、北米大陸の向こう側でも大きな痕跡を残すことになります。まずは従来通り、東海岸での動きから見ていきましょう。

「社会の敵」を標榜したパブリック・エナミー

先ほどデフ・ジャム・レコードについて言及した際、その名前を先んじて取り上げたパブリック・エナミー(PE)。彼らを他のデフ・ジャム所属アーティストと区別して語る理由、それは彼らのリリックの特質にあります。

前編のグランドマスター・フラッシュの項目でも説明しましたが、それまでヒップホップがラップしてきた内容はパーティーを楽しむ様子や、如何に自分がクールかの誇示(セルフ・ボースティング)が主流。だからこそ『ザ・メッセージ』を発表したフラッシュの意義は巨大なのですが、こうしたメッセージ性が即座にヒップホップのトレンドになることはありませんでした。

そうした背景のある中、PEは「社会の敵」を自称するグループ名にも明らかなように、社会への鋭い眼差しが一貫していました。そしてそれは、やはり一貫して攻撃的なものでもあります。

デビュー・アルバム『YO! BUM ラッシュ・ザ・ショウ』の時点でそのスタンスは明らかでしたが、一般にPEの最高傑作、そしてヒップホップの半世紀の歴史の中でも最も秀でた1枚とすら評されるのが1988年発表の2nd『パブリック・エナミーII』

Public Enemy – Don't Believe The Hype (Official Music Video)
2nd収録の代表曲『ドント・ビリーヴ・ザ・ハイプ』。「ハイプなんて信じるな!」と訴え、メディアや体制の妄言の中にいる同朋を啓蒙しようとする彼らを象徴するナンバーです。

JBからクイーンまでをサンプリングしたハードなサウンドも勿論素晴らしいのですが、それ以上に鮮烈なのがチャックDの畳み掛けるリリック。ラッパーとしての誇りを滲ませつつ、警察や議会といった権力への反発アフリカン・アメリカンへの鼓舞も同時に表明しています。

なぜパブリック・エナミーがこれほどに怒気を孕んでいるのか。それは1980年代当時のアフリカン・アメリカンが置かれていた立場を考える必要があります。

1960年代の公民権運動によって、法の上での人種差別は終結しました。しかしそれはあくまで書面上の解決に過ぎず、人々の心に巣食う差別意識までが一掃されたことを意味しません。1970年代以降も、やはりアフリカン・アメリカンは差別的待遇を余儀なくされていたのです。そして1980年代には白人と黒人の貧富の差はおそろしく拡大し、貧困から生じた薬物濫用犯罪率の増加が深刻な問題に。このことは前編で語ったブロンクスの治安状態とも直接リンクするものです。

当然、罪を犯したものは罰せられるべきであり、したがってアフリカン・アメリカンの逮捕率も上昇します。しかしそこには、警察権力の暴走があったことも事実。レイシャル・プロファイリングが横行し、警察による黒人への暴力も頻繁に発生していました。

その事実に、PEはヒップホップを通じて警鐘を鳴らしたのです。彼らによってヒップホップは、ブロック・パーティーのBGMでも新たなブラック・ミュージックのフォーマットでもない、黒人のための最もエネルギッシュな主張の場という性質を帯びるようになりました。

Public Enemy – Fight The Power (Official Music Video)
1989年発表の『ファイト・ザ・パワー』は、史上最高峰のプロテスト・ソングと名高い名曲です。この楽曲が提供されたスパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』とあわせ、当時のアフリカン・アメリカンの現実を今に伝える重要な資料。

ウェスト・コースト・ヒップホップの誕生と「イキった黒人たち」

ここからは舞台をアメリカ西海岸、カリフォルニア州LAへと移しましょう。ニュー・ヨークでの躍動に触発される形で、西海岸でもやや遅れてヒップホップが発展していきました。

ヒップホップ誕生の地、ブロンクスが全米でも最低レベルの治安であったことは前編で語った通り。しかし西海岸にもブロンクスに匹敵するゲットー、コンプトンの存在があります。ブラッズクリップスの二大ギャングが日夜抗争に明け暮れ、暴力とドラッグが蔓延する、そうした悲惨な環境は、しかしヒップホップが発展するには絶好の土壌でもあったのです。

ウェスト・コースト・ヒップホップにおける最初の重要人物はアイス-T。西海岸初となるレコード・デビューを達成したラッパーです。彼はクリップスの構成員でもあり、ラップされる内容も暴力やドラッグをモチーフにした過激なものでした。

こうしたギャングの生々しさや日常の暴力をラップする荒々しいスタイルは、そのままギャングスタ・ラップと呼称されるようになります。黎明期にはフィラデルフィアのスクーリーD、あるいは東海岸でもブギ・ダウン・プロダクションズらが存在していましたが、その中でも抜きん出て粗暴で、「世界で最も危険なグループ」とまで呼ばれたのがN.W.A

ドクター・ドレーアイス・キューブMCレンDJイエライージー・Eによって結成されたN.W.A、その名はNiggas with attitudesの頭文字を取っており、彼らの暴力的なイメージに沿って意訳するならば「イキった黒人たち」といったところでしょうか。イージー・Eがドラッグを売り捌いて得た資金を元手にルースレス・レコードを設立した彼らは、1989年にアルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン』を発表。たちまち話題を呼びます。

とりわけ、ロス市警の目に余る横暴を包み隠さず告発した『ファック・ザ・ポリス』は注目を集めました。PEの解説でも語った公権力の人種差別的な動きはコンプトンにおいても日常化しており、N.W.Aは当然このことに中指を突き立てるのです。

N.W.A. – Fuk Da Police
たとえ英語に明るくなくとも、単純明快で暴力的なタイトル、そして苛烈な彼らのラップに触れるだけで、黒人たちの怒りはひしひしと伝わってくることでしょう。「イキった黒人たち」の面目躍如と言える大名曲です。

軽んじてきたゲットーのアフリカン・アメリカンからの侮辱的な糾弾に憤慨したFBIがN.W.Aに公的な警告文を送るまでの事態(実態はFBIの総意ではなく、警察官僚個人の独断専行とも)に発展したこの楽曲は、しかしコンプトンで懸命に生き延びる人々にとってはこれ以上なく胸のすくエンパワメントだったことでしょう。そのことは、『ファック・ザ・ポリス』が1992年に発生したロサンゼルス暴動のアンセムになってしまったことからも明らか。

しかしながら、N.W.Aは決してパブリック・エナミーのように、冷静沈着な怒りと警告を与えたかったのではないことには注意が必要です。あくまでコンプトンのリアルをラップする、あるいは、ヒップホップで頭角を表し一儲けする、これが彼らのモチベーションでした。

実際、レーベルを主宰したイージー・Eとマネージャーのジェリー・ヘラーが利益を独占するようになります。このことに憤慨したアイス・キューブが脱退。次いでドクター・ドレーもグループを去り、両翼を失ったN.W.Aは1991年に解散します。こうして短命に終わったN.W.Aですが、彼らの残した衝撃はヒップホップの歴史でも有数のものでした。

ヒップホップもまた、世につれ

さて、パブリック・エナミーとN.W.A、この東西両雄が同時期にマスターピースを放ち、ヒップホップの歴史に大きな爪痕を残した事実は、果たして単なる偶然の一致と片付けていいのでしょうか?私はそうは思いません

過去にもしばしば引用してきた「歌は世につれ、世は歌につれ」、この言葉をヒップホップにも当てはめて考えてみましょう。公民権法の制定以降最も差別が苛烈だったこの時代に、しかし黒人たちには声をあげる手段がなかった。

§4.で解説したように、アメリカが誇る大スター達は『ウィ・アー・ザ・ワールド』を歌いました。ポップ・ミュージックの光で、エチオピアの人々を照らすために。しかしその華々しい光のすぐ下には、暗い影の中にいる人々が確かにいたのです。USAフォー・アフリカにはマイケル・ジャクソンをはじめとしたアフリカン・アメリカンも多く参加していますが、ゲットーに生きる黒人にとって、彼らはまったく別世界の住人に見えていたことでしょう。

そして彼らにとってより共感できる音楽こそ、慣れ親しんだストリートから生まれ、彼らにとってのリアルをラップするヒップホップだったのです。

この「リアルである」という性格は、1990年代にとって非常に大きなテーマとなることをこの時点で予告しておきましょう。1980年代の光、その眩さに疲弊した人々の望みに応えるように、「陰」の中にあったありのままの音楽が「光」を超克する、ポピュラー音楽史上最大の政権交代が1990年代初頭に発生します。

そうした機運の中、ヒップホップもまた「リアルである」ことで勝ち得た信頼によって1990年代にますます発展していきます。それはギャングスタ・ラップの暴力的な生々しさにしろ、PEのようなリリックの鋭さにしろ、あるいは「ネイティヴ・タン」の着の身着のままなスタイルにしろ。

そう、時代と呼応しながら、その信頼を勝ち取った1980年代ヒップホップ。ゲットーのパーティーから始まったこの新興ジャンルが1990年代、そして今日に至るまで大きな影響力を持つ最大の理由は、この時代の歩みにこそあるのです。

まとめ

  • RUN-D.M.C.らクイーンズのヒップホップ、そして彼らを束ねたデフ・ジャム・レコードの活躍により、1980年代に入ってヒップホップが商業的な規模を拡大する
  • 1980年代末に結成されたネイティヴ・タンによって、ヒップホップはより多様なニュー・スクールの時代を迎える
  • 当時の黒人差別を背景に、デフ・ジャム所属のパブリック・エナミーがメッセージ性の強いヒップホップを表現
  • 同時期の西海岸ではギャングスタ・ラップが成立し、N.W.Aがコンプトンの惨状をヒップホップで告発。賛否両論ありながらも大きな反響を生む

最後に、今回の解説をまとめました。ヒップホップの音楽としての発展、そしてメッセージとしての発展、その両方に触れていきましたので構成上の時系列が前後してしまいましたが、1980年代ヒップホップの概論としては十分なものになったかと思います。

タイトルにもある通り、本稿で「1980年代洋楽史解説」は完結となります。長らく(本当に長らく)お付き合いいただき、ありがとうございます。

……とはいえ、しばらくこのテーマでの投稿を続けましょう。次回は解説を踏まえて、1980年代を象徴する10枚の名盤をご紹介していこうと思います。あともう少しのお付き合い、何卒よろしくお願いいたします。

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