たいへんご無沙汰しておりました。今回は連載企画、1980年代洋楽史解説を今一度進めていきましょう。1年以上ぶりの更新ですので、バックナンバー、及び過去シリーズにあたる1960年代編、1970年代編はそれぞれ以下のリンクからどうぞ。
前回のHR/HMに関する解説で、いよいよ本シリーズは1980年代の「陰」へと接近しました。そして今回は、ロック・ミュージックにおける「陰」の広がりを俯瞰していくことになります。オルタナティヴ・ロックという、深遠なる世界を。
今回以降のセクションは、おそらく今日的に最も大きな意味を持つ分野となるでしょう。なにしろこの30年、オルタナティヴ・ロックこそがシーンの基幹であり、リスナーに広く支持されているのですから。とはいえ一口にオルタナティヴ・ロックと言ってもその範囲はあまりに広大、そのそれぞれを注意深く観察しつつ、変遷を捉えていければと思います。それでは始めましょう。
UKポスト・パンクが広げたロックの多様性
ロンドン・パンクの終息と、「パンクのその先」を見据えた開拓者たち
ポスト・パンクについて語るのであれば、まずはロンドン・パンクについての確認をせねばならないでしょう。とはいえ詳細は1970年代編の§8.後編で解説していますので、ここではあくまで概論にとどめておきます。
マルコム・マクラーレンが仕掛け人となって殴り込みをかけたセックス・ピストルズ、そしてその成功に続けとばかりにザ・クラッシュやダムドが躍動した1977年のUKロック・シーン。「パンク・イヤー」とでも表現すべきこの1年で、ブリティッシュ・ロックの勢力図は大きく変容します。ハード・ロックやプログレッシヴ・ロックはパンクの仮想敵としてこき下ろされ、ムーヴメントの停滞もあいまってシーンからは後退。
その一方で旧世代の打倒を果たしたパンクそのものも、それ以降のヴィジョンを描くことができぬままに短命に終わってしまいます。しかしロンドン・パンクの一派には、確かに「パンクのその先」を表現することに成功したアーティストも存在します。
まず語るべきはロンドン・パンクの象徴、セックス・ピストルズのヴォーカリストだったジョニー・ロットンです。ピストルズのラスト・ギグで「騙された気分はどうだい?」と言い放ち、ロンドン・パンクの虚飾を暴露したロットンは、すぐさま「パンクのその先」へ挑戦しました。彼は本名のジョン・ライドンへと名義を改め、意気込みも新たにパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成します。
「大衆の抱く(パンクへの)イメージの限界」を標榜するバンド名の通り、PiLの音楽性はクラウトロックやレゲエ/ダブの影響を受けた冷ややかで実験的な代物で、直情的パンクとは対極に位置しています。つまり、ピストルズで旧来のロックを否定したライドンでしたが、彼はこのPiLでそのパンクに対してすらノーを突きつけたのです。
そしてピストルズと双璧をなすロンドン・パンクの雄、ザ・クラッシュも「パンクのその先」を確かに見据えていました。彼らは1st『白い暴動』の時点で既にレゲエを導入していましたが、その貪欲な表現の真価が発揮されたのが1979年にリリースされた2枚組の大作、『ロンドン・コーリング』。
レゲエは勿論のこと、スカ、ロカビリー、R&B……極めて広範にわたる音楽性を吸収したこのアルバムは、ロンドン・パンクが明らかにしたロックの限界に対する創作的模範解答そのもの。
あるいは、元バズコックスのハワード・ディヴォートが結成したマガジンもこの文脈で語り得るでしょう。彼らの1st『リアル・ライフ』はパンクの狂熱冷めやらぬ1978年のリリースですが、耽美的世界観にテクニカルな演奏、幅広い音楽性のアプローチによって確かに「パンクのその先」の音像を表現することに成功しました。
事実、マガジンはU2やザ・スミスといったポスト・パンクの第二陣にあたるバンド群からリスペクトされていますし、その影響はレディオヘッドやレッド・ホット・チリ・ペッパーズといった1990年代のオルタナティヴ・ロックにまで波及しています。
もっとも、これまでに紹介したようなロンドン・パンクからの直接的発展としてのみポスト・パンクを捉えてしまうのは正確ではありません。キャリア初期の時点で、既にポスト・パンク的音像を表現したバンドも確かに存在するのです。
未熟な演奏技術を逆手に取ったミニマムかつフリーキーな音楽性で知られるワイヤー、デビュー作『最後の警告』でフリー・ジャズすらを参照した異形の音楽を提示したザ・ポップ・グループ、夭逝の天才イアン・カーティスによる閉塞感と絶望の表現が存在感を放つジョイ・ディヴィジョン、ファンクとウィルコ・ジョンソン、そしてパンクの政治色を見事にブレンドしたギャング・オブ・フォーらがその代表例。
彼らの音楽性はそれぞれに独創的ですが、共通しているのは「従来のロックに追従しない」というアティチュードです。1980年代に入るとポスト・パンクはより多様性を広げ、さらには近年のポスト・パンク・リバイバルのムーヴメントでその境界はさらに曖昧なものになっていますが、この態度の一点によってポスト・パンクを定義することが可能と言えるでしょう。
ポスト・パンクが確立した、UKロックの静かなる最盛期
さて、ここまでに見てきたポスト・パンク成立の過程、その動きはタイムライン上では実のところ1970年代に起こったものです。しかしながら、このトピックは1980年代洋楽史解説でこそ重要視しなければならないものでもあります。何故ならば、ポスト・パンクはむしろ1980年代にこそ、より多様に、より充実したシーンを構築していくからです。ここからはいよいよ、1980年代のポスト・パンクの歩みを見ていきましょう。
ポスト・パンクの充実を語るのであれば、まずは1980年代最大のロック・バンド、U2について触れるべきでしょう。彼らはイギリスの隣国アイルランドの出身ですが、キャリア初期の音楽性は大いにUKポスト・パンクの影響下にあります。
2nd『WAR (闘)』でそれは顕著で、北アイルランド問題やポーランド独立運動を題材にした政治的な歌詞表現が注目されがちな一方、ディレイを巧みに操るギター・プレイが印象的なそのサウンドにはポスト・パンクの冷ややかさと攻撃性がパッケージされています。その空間的なサウンドはポスト・パンクのサブ・ジャンルであるネオ・サイケデリアの文脈の中で捉えることもでき、エコー&ザ・バニーメンらと比較することも少なくありません。
もっとも、U2はこの『WAR(闘)』のヒット、そして以前こちらで解説した「バンド・エイド」及び「LIVE AID」での中心的な活躍を皮切りにワールドワイドなスターへと飛躍し、その音楽性からポスト・パンクのエッセンスは減退していきます。彼らの脱ポスト・パンクはルーツ音楽へ接近してみせた傑作『ヨシュア・トゥリー』によって決定的なものとなりますが、本稿ではあくまでもU2は最も成功を収めたポスト・パンクとして認識したいと思います。
同じくポスト・パンクを背景にヒットを記録したアーティストであれば、ニュー・オーダーについても語らねばなりません。前身バンドは先ほど紹介したジョイ・ディヴィジョンですが、フロント・マンのイアン・カーティスの自殺という悲劇を受け、残されたメンバーで名義を新たに再スタートしたという経緯を持ちます。
彼らはジョイ・ディヴィジョンから地続きな閉塞的ポスト・パンクにエレクトロニカやクラブ・ミュージックを導入し、まったく新たなサウンドを展開。カーティスの死を歌った『ブルー・マンデー』は1980年代を代表する名曲と誉れ高く、また彼らは1980年代末に流行するマッドチェスターのムーヴメントにも貢献したことでも重要です。
そして、セールスの規模こそこの2バンドに劣るものの、その影響力においてはポスト・パンクでも最高峰と言えるバンドがザ・スミスです。モリッシーとジョニー・マーを中心に結成されたザ・スミスは、陰惨な詩情とジャングリーなギター・サウンドで英国的な陰影を見事に表現しました。
活動期間は僅か5年と短く、アメリカでの支持は皆無に等しかったものの、本国イギリスでは絶対的な地位を確立。彼らの音楽性はポスト・パンクでありながら、同時に1990年代以降本格的になるオルタナティヴ・ロック/インディー・ロックの初期段階として解釈することも可能で、その先駆的な表現は後続のバンドに多大な影響を与えました。
他にもゴシック・ロックの代表格であるザ・キュアー、同じくゴシック・ロックの一派でもありながらシューゲイズ/ドリーム・ポップの先駆としても重要なコクトー・ツインズ、シンセ・ポップのダーク・サイドを描いたデペッシュ・モード、オレンジ・ジュースやアズテック・カメラらに代表されるサブ・ジャンルのネオ・アコースティック……ポスト・パンクから派生し、1980年代中盤のUKロックはこれまでにない多様性と独創性を現出することになります。
しかしながら、こうした充実はあくまで密やかに進行した点は意識せねばならないでしょう。言うまでもなく、ポスト・パンクがヒットとは無縁だったとするのはあまりに恣意的な史観ではあります。U2は言うに及ばず、ザ・スミスの傑作『ザ・クイーン・イズ・デッド』は全英2位のヒットを記録していますし、デペッシュ・モードは欧米ではスタジアム規模のコンサートを容易に開催できるだけの支持を集めていますから。
ただ、やはり1980年代のヒット・チャートを席巻しているのはニュー・ウェイヴであり、MTVでのヘビー・ローテーションこそがヒットの基本原則。その観点からすれば、このポスト・パンク一派はやはりアンダーグラウンドに、水面下で醸成されていった音楽性であると理解するのが妥当でしょう。
アメリカにおけるオルタナティヴ・ロックの萌芽
ここからは舞台をアメリカへと移していきます。アメリカで決してパンクが大衆的な支持を受けなかった事実はこのシリーズで折に触れて紹介していますが、それでもなお、1980年代には「アンチ・ポップス」の価値観がアメリカでも浸透していくことになるのです。
これから語るいくつかのムーヴメントもイギリスでのポスト・パンク同様、商業的成功とは距離を置くものではありますが、以降のポピュラー音楽、わけても1990年代初頭のロック・シーンに大きな影響を及ぼしたものであることをまずは明らかにしておきましょう。
「オルタナティヴ・ロック」とは?
そもそも、「オルタナティヴ・ロック」とはなんぞや?今日の音楽評論においても頻繁に登場する巨大なジャンルではありますが、その範疇が広大なあまり、その定義が判然としない方も多いのではないでしょうか。まずはこの点の解説から始めていきましょう。そうしなければ、これから語ることになるオルタナティヴ・ロックの意義そのものを見誤りかねませんから。
“Alternative”という言葉には「代わりの/もう1つの」という意味があります。つまり、オルタナティヴ・ロックは何かの「代わり」であり、特定の音楽性を示すジャンルというよりはむしろ、比較すべき対象が存在して初めて成立する相対的な概念なのです。これこそがオルタナティヴ・ロックの多義性を生み出しているのですが、ではその比較すべき対象とは何か。
それは、そのロックが鳴らされる以前に存在した音楽カテゴリすべて。既存の音楽性のどこにも括り付けることのできない先鋭性と独創性、それがオルタナティヴ・ロックの本質であると、その成立からの動向に注目して確認していきます。
オルタナティヴ・ロックの開闢に意識を向けるのであれば、実のところ大きく時を遡る必要があります。1980年代を置き去りに、1970年代をすら飛び越え、ポピュラー音楽史上の特異点、1967年に今一度立ち返りましょう。この年、ニュー・ヨークで1枚のレコードが発表されました。ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(ヴェルヴェッツ)の1stアルバム、『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』です。
1967年という時代背景を踏まえれば、この作品の前衛性には目を見張るものがあります。頽廃的で幻惑的なサウンドは当時最先端であるところのサイケデリック・ロックとも異なる新奇性に満ちていますし、楽曲の主題はドラッグやSMといった思わず眉を顰めたくなるものを露骨に取り上げているのですから。時代のフロンティアをひた走るザ・ビートルズですら、これほどアヴァンギャルドな表現には至っていません。
その強烈な先進性は、当時の大衆には受け入れられることなく終わります。しかし時代を経るごとに、この作品、そしてヴェルヴェッツは重要なインスピレーションとして度々言及されることになります。その中でも最も明確な影響が、ヴェルヴェッツと同じくニュー・ヨークで発生したパンク・シーンの一群。
このシーンは肥大し膠着する1970年代当時のロックにはなかった数々の先駆性を披露することになりますが、そこかしこにヴェルヴェッツの面影は発見できます。その危うげなサウンドはテレヴィジョンへと継承され、ルー・リードのナンセンスな文学性はパティ・スミスの着想となり……
そういった意味では、「パンク」という記号を持つものの、NYで興ったそれは1970年代におけるオルタナティヴ・ロックと捉えて然るべきものでもあるのです。となれば当然、先に触れたUKポスト・パンクも多分にオルタナティヴ・ロック的と解釈されます。
ここまでの解説で、本来オルタナティヴ・ロックとは特定の時代におけるトレンドではなく、普遍的な定型と評価すべきものであることはおわかりいただけたかと思います。しかしながら、1980年代に興ったそれは特筆すべき価値があることもまた事実。以降は実際のバンドや音楽性に言及しながら、その意義を確認していきましょう。
NYパンクの、さらにその先
先ほど触れたようにオルタナティヴ・ロックの1970年代的な様式としてパンクを定義づけるのであれば、その延長線上で発展したムーヴメントにまずは注目していきましょう。このチャプターにおいてもとりわけ小規模、商業的にもまったくの成果を得なかったと言っていい文脈なのですが、オルタナティヴ・ロックの理解を深めるのであればその意義は重要です。
パンクがニュー・ウェイヴとポスト・パンクへと枝分かれし、1980年代のスタイルを確立した。それはここまでの解説で見てきた通りです。ですが実際には、第三の支流とでも言うべきシーンが構築されます。そのシーンが持ち合わせた大衆性への敵愾心とさらなる新奇性への好奇心は、当時誰もが斬新に感じていたニュー・ウェイヴをすら否定してこう呼称されました。ノー・ウェイヴと。
DNAやジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズといったバンドはNYパンクが発揮した実験精神をさらに推し進めるべく、フリー・ジャズやノイズ・ミュージックといったフリーキーなサウンドを取り入れていきます。そうした音楽性はまったくのアンダーグラウンドで、一般的な注目を一切浴びずに静かに狂気を表現していたのですが、ある男がその狂気に関心を寄せることになります。
その男こそがブライアン・イーノ。デヴィッド・ボウイの「ベルリン3部作」やトーキング・ヘッズの諸作をプロデュースした、ニュー・ウェイヴにおける重要人物です。イーノはトーキング・ヘッズのプロデュースのためにニュー・ヨークに訪れた折、このノー・ウェイヴのシーンを発見しました。その独創性に強く惹かれた彼は、シーンを牽引するバンドを集め1枚のコンピレーション・アルバムを制作します。
『ノー・ニュー・ヨーク』と銘打たれたその1枚は、やはり商業的に成功することはありませんでした。しかし、今日においてノー・ウェイヴのムーヴメントが記憶されるための大きな楔としての役割を果たしています。その功績は、初期ガレージにおける重要コンピレーション盤『ナゲッツ』と類似しているかもしれません。
さて、ここでもう一つのパンクの派生系を紹介しておきましょう。ノー・ウェイヴがパンクの実験性を煮詰めたものであるならば、パンクが持つ攻撃性をブーストさせる方向へ進んだバンドもいました。そうした一群は、ハードコア・パンクと呼ばれることになります。
このハードコア・パンクの旗印として挙げるべきバンドがブラック・フラッグ。ラモーンズからロックンロールを取り除き、より破滅的に発展した彼らの音楽性は、ハードコア・パンクの典型と評価していいでしょう。またキャリアを深めるにつれ、パンクのもう一つの側面である音楽的な実験も導入していった点も彼らをシーンの代表たらしめています。
そしてもう一点、ブラック・フラッグをハードコア・パンクの象徴たらしめる理由。それは彼らが設立したインディー・レーベルSSTレコードにあります。そこに在籍した面々は、ミニットメン、ハスカー・ドゥらハードコア・パンクの重要バンドや、ソニック・ユースやダイナソーJr.のように後にメジャーでも成功を収めたギター・ロックの急先鋒。いわばブラック・フラッグは、彼らを軸に80’sオルタナティヴ・ロックの樹形図を構築できるような、そうした存在なのです。
そしてこうした、インディー・レーベルが一定の音楽的志向を伴いシーンを形成していく構造。これはショウビズとしてのロック・ミュージックでは到底あり得ないものでした。従来のレーベルは制作やプロモーションのための機構に過ぎませんでしたし、ザ・ビートルズにしろクイーンにしろ、あるいはピストルズにしろ、メジャー・レーベルと契約してアルバム制作にあたるという手続きを当然のように行っていました。
しかし以降の音楽シーンでは、90’sに飛躍を遂げるサブ・ポップを代表例に、こうした音楽性の共通項を持つレーベルが存在感を増していきます。決して大規模な遷移ではありませんが、ハードコア・パンクがもたらした転換は理解されるべきポイントです。
カレッジ・ラジオが果たした貢献
続いて見ていくのはカレッジ・ロック。この語彙もオルタナティヴ・ロック同様に音楽性そのものに由来するのではなく、その波及の過程から命名されたものです。まずはその動向を確認してみたいと思います。
アメリカの大学には、カレッジ・ラジオと呼ばれる学生が自主的に運営するFMラジオ局が数多く存在していました。最盛期には1500を越えるともされたカレッジ・ラジオは、ヒット・チャートを大いに反映させた大手ラジオ局とは異なり、独自性と地域性を尊重したインディペンデントな音楽を発信していきます。その個性的な活動内容に着目し、1979年に創刊された雑誌がカレッジ・メディア・ジャーナル(CMJ)。
CMJの特色は、全米のカレッジ・ラジオの放送を集計し、カレッジ・チャートと呼ばれる独自のチャートを発表していた点にありました。そしてこのカレッジ・チャートには、多くの独創的で、それゆえヒット・チャートとは無縁のアーティストが名を連ねることになるのです。そうした一群を称して、カレッジ・ロック。
このカレッジ・ロックから出発したバンドとして、R.E.M.を取り上げてみましょう。1990年代にはアメリカの国民的バンドにまで成長した彼らですが、インディー・レーベルから発表された初期の作品には1980年代の流行とは似ても似つかぬ独創性があります。
ニュー・ウェイヴにサイケデリック・ロックやカントリーの要素を独自にブレンドした音楽性は滋味豊かではあるものの華やかさが欠落していますし、マイケル・スタイプのくぐもった歌唱は何を歌っているのか判然とせず、歌詞そのものも政治的な主張や文学性に満ちた難解なものです。
彼らのデビュー作『マーマー』は全米36位とまずまずのヒットを記録していますが、その存在感は多くのスーパー・スターたちに比べれば小さいものだったと言わざるを得ないでしょう。しかし、そのユニークなサウンドを全米のカレッジ・ラジオはこぞって歓迎します。『マーマー』はカレッジ・チャートを席巻し、その注目度を高めていくことに。そしてこの作品は、あの『スリラー』やザ・ポリスの傑作『シンクロニシティ』を抑え、ローリング・ストーン誌の年間ベスト・アルバムに選出されるまでに至ります。
R.E.M.ほど大きな評価と成功を達成したカレッジ・ロック・バンドは決して多くはありませんが、ザ・リプレイスメンツやティムバック3のような優れたバンドが今日まで密かにではあるもののその名を記憶されているのは、カレッジ・ロックの大きな功績の1つ。
また、次のチャプターで詳細に解説していくオルタナティヴ・ロックの初期段階を支えたバンド、あるいはU2やザ・スミスといったUKポスト・パンクの一群をカレッジ・ラジオが紹介した事実も重要です。こうした貢献の巨大さに関して言えば、カレッジ・ラジオはMTVに匹敵するプラットフォームだったと評価できるでしょう。
「ポスト90’s」となった80’sギター・オルタナティヴ
ここから見ていくのは、オルタナティヴ・ロックの音楽的特質により合致するバンド群。さきほどオルタナティヴ・ロックは音楽性ではなくその独創性によって定義されると申し上げましたが、しかしそこには一定の共通点が見られるのも事実なのです。その共通点とは、ブルース・フィーリングを破棄したギター・サウンド。
すべてのポピュラー音楽の祖と言ってもいいブルースは、ロック・ギターに非凡な影響を与えてきました。キース・リチャーズ、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックス、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ギルモア……1970年代までのギター・ヒーローたちは、その表現こそ様々ですが皆ブルースを出発点にそのギター・プレイを構築しています。そしてそれは、ランディ・ローズやスラッシュといったHR/HMにおける名うてのギタリストにも継承されていきました。
しかし、オルタナティヴ・ロックはこうした既存のアプローチをよしとしません。それこそヴェルヴェッツは現代実験音楽の影響下にあるノイズ・パンク的なギター・サウンドを展開しましたし、テレヴィジョンのトム・ヴァーレインのプレイ・スタイルはブルースの泥臭さとは無縁の淡々とした神経質なものです。こうしたアンチ・ブルース的なロック・ギターの可能性は、1980年代により発展していくことになります。
その代表格として、ハードコア・パンクの項目で既に登場したソニック・ユースに注目しましょう。ヴェルヴェッツやテレヴィジョンと同じニュー・ヨーク出身の彼らは、そのサウンド・アプローチにおいても彼らの正統後継者と言うべき存在。
ギタリストのサーストン・ムーアは「エレキ・ギターの本質はノイズにこそある」という偏屈な信念の持ち主で、変則チューニングや独自の和音を多用することでロック・ギターに新たな地平を切り開きます。また、同時代のノイズ・ロックにおける重要バンド、ダイナソーJr.を発掘したのもこのソニック・ユースです。
ノイズ・ギターという着眼点であれば、ザ・ジーザス&メリーチェインも忘れてはなりません。彼らはイギリスのバンドですからこのチャプターで扱うのはスマートではないのですが、文脈としてはポスト・パンクではなくここで語るべきでしょう。
彼らの1st『サイコキャンディ』は甘くポップなメロディを耳障りなギター・ノイズで覆いつくすという斬新な手法を提示し、ノイズ・ポップというジャンルを打ち立てます。このノイズ・ポップはのちにネオ・サイケデリアと結びつき、1990年代にマイ・ブラッディ・ヴァレンタインらによってシューゲイズとして大成されることになるのですが、同時代においても多くのオルタナティヴ・ロック・バンドに影響を与えています。
そしてそのザ・ジーザス&メリーチェインに影響を受けたバンドの1つが、ピクシーズ。轟音のギター・サウンドはこれまでに紹介したバンド群にも共通しますが、そこに極端なダイナミズムとブラック・フランシスの気が触れたような絶叫を加えることでその個性を確立しました。その狂気的な個性は「ラウド・クワイエット・ラウド(喧しく、静かに、そして喧しく)」という様式を打ち立て、レディオヘッドの『クリープ』をはじめとした1990年代以降の多くの名曲で踏襲されるスタイルとなっています。
さて、彼らの音楽性は独創的であって秀逸なものばかりで、今日においても多くのリスナーから支持されるものではあります。しかし、先達であったヴェルヴェッツやNYパンクがそうであったように、決してヒット・チャートを賑わせるような展開にはならなかったことも事実。なにしろ音楽の商業化がかつてなく進んだ1980年代、華やかなビジュアルもキャッチーなミュージック・ビデオもなく、粛々と「もう1つのロック」を模索する彼らが大衆からの支持を得るのは難しかったでしょう。
では何故、彼らが今もなお重要なアーティストとして歴史の中で語り継がれるのか?こうしたバンドの動向が、1991年に起こったロック史上最大の転換の序章だったからです。彼らがアンダーグラウンドに紡いだロックの可能性は、ある1人の男によって一躍大衆に示され、ロック・シーンの趨勢は一変することとなります。
本チャプターに「ポスト90’s」とあるように、ここでの解説の真価が問われるのは1990年代洋楽史解説を待たねばなりません。しかしながら、先にも触れたその巨大な転換は何も自然発生したのではなく、偉大なるイノヴェーターの貢献が前触れとして存在していたことは、1980年代洋楽史解説の中で確かに言及しておかねばならないのです。
まとめ
いつものことながら、しかしいつも以上に長い解説となってしまいました。ここで本稿の内容をまとめておきましょう。
- ロンドン・パンクの終息後、旧来のロックにはないアプローチを志向するポスト・パンクのムーヴメントが形成される
- ポスト・パンクは多くのサブ・ジャンルに分化しながら、1980年代のイギリスにおいて広がりを見せる
- 同時期のアメリカでは、NYパンクの前衛性を進展させたノー・ウェイヴや、パンクの攻撃性を強めたハードコア・パンクが成立する
- アメリカ各地のカレッジ・ラジオがヒット・チャートとは離れた独自のシーンを構築し、多くの独創的ロックを紹介する役割を果たす
- 旧来のブルース的アプローチから離れた、独自のサウンドによるギター・オルタナティヴがメジャー・シーンの水面下で発展する
「オルタナティヴ・ロックとは何か?」という質問をされることは、私の実体験の中でもしばしばありました。そうした質問に対する、歴史背景を踏まえた回答として本稿は極めて有意義なものになったと思います。一連の洋楽史解説の中でも、渾身の内容になったかと思いますが如何でしょうか。
さて、長らく中断していた本シリーズ、再開させたからにはこのまま完結まで駆け抜けていきましょう。次回で最終セクションとなります。
これまでロック・ミュージックの軌跡を中心に、そして適宜ソウル/R&Bやポップスといった分野に言及するという展開をしてきた本シリーズですが、次回はまったく新たな、未開の領域へと足を踏み入れることになります。しかし、ともすればそれはニュー・ウェイヴやHR/HM、オルタナティヴ・ロック以上に重要な議論となることでしょう。どうぞお楽しみに。
コメント