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A LONG VACATION/大滝詠一 (1981) 〜大滝詠一が辿り着いた、邦楽史上最大の成果〜

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今回レビューしていくのは、大滝詠一『A LONG VACATION』

アルバム単体でのレビューは久しぶりですね。宇多田ヒカル『BADモード』以来ですか。

日本の夏を代表するこの傑作アルバムを、一体なぜこの真冬にレビューするのか?それは、このレビューが「ピエールの音楽論」の記念すべき100本目の記事となるからです。その特別な記事には、やはり私にとって特別なアルバムをレビューしたかったんですよ。

という訳で準備中の数ある企画をほっぽり出して、今回は私の音楽体験の中でもトップクラスの愛聴盤、『A LONG VACATION』の世界に迫りたいと思います。それでは参りましょうか。

『A LONG VACATION』に至るまで〜リズムの探求〜

邦楽史上屈指の傑作と誉れ高い『A LONG VACATION』、この作品は一般に大滝詠一の最高到達点として評価されています。

それは単に音楽的に高度である、楽曲の練度が高い、そういった理由も当然ありますが、この作品に至るまでの大滝詠一のキャリアを鑑みることで一層深く理解できるポイント。まずはそこから話を進めましょうか。

大滝詠一というアーティストの出発点、それははっぴいえんどにあります。大滝に加え、細野晴臣鈴木茂松本隆という日本音楽を牽引した最重要人物が一堂に会した伝説のバンド。そのギタリストとして、彼は邦楽史に初めて登場しました。

はっぴいえんど:左から大滝詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆

1971年末にはっぴいえんどはたった2枚のアルバムを残し解散しますが(解散後『HAPPY END』を発表)、大滝のソロ・キャリアが本格的に始動するのはその少し後、1970年代中頃からです。

1970年代の大滝詠一の作品、それは「リズムの探求」と言って差し支えない内容です。この時期に彼が発表、あるいは関与した作品にはもちろんメロディアスな楽曲も収録されていますが、それ以上にリズムに拘泥を見せた楽曲が目立ちます。

ここでの「リズム」が指すのは、ファンクやR&Bといった一般的な範疇に留まりません。ドミニカ共和国のメレンゲやアメリカはニューオーリンズのガンボといった、世界各国に点在する土着的ダンス・ミュージックにこそ、大滝は関心を示すようになります。それは最終的に、「日本土着のダンス・ミュージック」として音頭に帰着するのですが。

しかし残念ながら、日本人はそうしたリズムに大きな関心を示しません。前提として日本は「歌」の文化であり、メロディや歌唱をこそ重んずる感性が根付いています。その中で大滝の探究というのは、興味深いものではあれど決して商業的に大きな成功を収めるには至りませんでした。

はっぴいえんどの同窓生である細野晴臣や鈴木茂はソロ・アーティストとして1970年代にはニュー・ミュージック界を牽引していましたし、松本隆も作詞家として歌謡の世界で大成します。その中において、大滝のアカデミックな模索は埋もれてしまっていたのは紛れもない事実。

その追求を、万人に愛されるポップスの域に押し上げたのがこの『A LONG VACATION』だという見解を、私はここで示したいと思います。本作を単に「シティ・ポップの名盤」「日本の夏のアンセム」として大衆的な名盤と見なすのは余りに惜しい。

当然、露骨な音頭を収録するといった真似はしません。後述しますが、大滝はあくまで本作を「ポップス」として通用する普遍性を持ったアルバムにする用意がありましたから。その上で、楽曲の至るところに、彼のリズムへの耽溺の痕跡が残っている。

そういった観点で、本作収録の大滝詠一の最高傑作、『君は天然色』に注目してみるとどうでしょう。紛れもなく国産ポップスの最高峰であるこの楽曲にも、1970年代の大滝の実験の成果が感じ取れます。

[Official] 大滝詠一「君は天然色」Music Video (40th Anniversary Version)

4つ打ちのキックに対し、スネア・ドラムによって決定されるビートの「軸」は徹底して裏拍に設定されていますし、Bメロのトリプレットは実に軽妙。サビの大らかなメロディの背後でも、やはり3連のパターンでフレーズが絶えず打ち鳴らされています。

そしてもう1つ顕著な例として挙げたいのが、『Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語』という楽曲。上質で伸びやかなメロディに注意を奪われてしまう(そう、あくまでメロディを主軸としているのが本作の恐るべき達成なのです)ものの、ここは是非リズムに耳を傾けてみましょう。

簡潔に形容すればシャッフル的なビートですが、ドラムのパターンが実に複雑なことに気づくかと思います。日本で一般に受容されるポップスとしては横紙破りと言ってもいい大胆なリズム・パターン。

こうしたリズムの捻り、それを日本の歌謡的感性の中でも受容されてしまうポップネスによって包み込んでしまった。この点にこそ、私が『A LONG VACATION』を実験的傑作と主張する根拠があるのです。

このリズムの複雑性は、思えばザ・ビーチ・ボーイズの傑作『ペット・サウンズ』にも通ずるものですし、両者が共にフィル・スペクターを参照した作品であることも示唆的ではあるのですが。フィル・スペクターとの関連は次のチャプターに譲ることにしましょう。

ナイアガラ・サウンドの究極形〜フィル・スペクターを訪ねて〜

次に言及していくのは本作のサウンド・プロダクション。ここにも、大滝詠一という求道者の真髄を見ることができます。

有名な話ですが、本作、ひいては大滝詠一という音楽家の重要なインスピレーションはフィル・スペクターにあります。ポップスの歴史における紛れもない巨匠、ザ・ビートルズやボブ・ディランにも匹敵し得るポピュラー音楽屈指のイノヴェーターです。

彼に関してはそれこそ『ペット・サウンズ』のレビューでも言及しましたが、もう一度。スペクターのサウンド・プロダクションの特色は、大人数によるバンド編成での堅牢な演奏、そこにたおやかで強烈なエコー処理を施し、より荘厳なものに仕立てる「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる手法にあります。

The Ronettes – Be My Baby (Official Audio)
「ウォール・オブ・サウンド」最良の一例、ザ・ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』。重厚なサウンドとポップスとしての確固たる完成度のコンビネーションは、ザ・ビートルズ登場までのアメリカ音楽市場を席巻しました。

大滝は自身の理想とするサウンドを「ナイアガラ・サウンド」と呼称しますが(大滝=ナイアガラ瀑布という洒落)、そのルーツにはこの「ウォール・オブ・サウンド」があります。1970年代の諸作でも、スペクターへのオマージュは随所に発見できる部分。

そしてこれはリズムの時に語った内容の繰り返しにはなりますが、そうした彼の原点と理想とするサウンド・メイキング、それを「J-Pop」の枠組みで遂行したのがこの『A LONG VACATION』です。

ここは実際に楽曲を聴いていただいた方がいいでしょう。最もスペクターへのリスペクトを感じ取れる楽曲として、『恋するカレン』を聴いてみましょう。

イントロの瑞々しいピアノに施された残響の色彩、オールディーズから地続きのリズムの感覚、効果的にインサートされるカスタネットの軽やかさ、そして何よりサビでの壮麗なサウンドヴィジョン。どれも「ウォール・オブ・サウンド」の流儀に忠実と言えます。

先に紹介した『君は天然色』も実にスペクター的なサウンドですし、本作であれば『Velvet Motel』も「ウォール・オブ・サウンド」に接近したナンバーです。日本でこれほど開けっぴろげに参照元を明示した作品は、『A LONG VACATION』を置いて他にはないと言えるでしょう。

もっとも、本作は単なるフィル・スペクターへのオマージュで終始しません。この作品で全面的に「ウォール・オブ・サウンド」を引用したことには、ある必然性があります。その必然性こそ、本作における最大のエッセンスなのです。

大滝詠一という最高のメロディ・メーカー

さて、リズムとサウンド、その両面について本作が実験的、少なくとも既存の国産ポップスの通例に従うものでないことを見ていきました。

しかしながら、本作は日本初のミリオン・ヒットを記録したCDとなるほどの成功を収めています。これほどに意欲的でありながら商業的にも受容されたその要因こそ、本作最大の魅力である大滝詠一のメロディ・センスです。

もう一度『君は天然色』や『恋するカレン』を聴いてみてください。これまでにお話ししたことを一度忘れてもらうとなおよいでしょう。小難しいサウンドやリズムへの意識を捨て去った時、そのメロディの途方もない純度の高さに驚くかと思います。

1970年代の大滝の活動は、「ノベルティ路線」と呼ばれるおふざけ半分のコミカルなものも多くありました。それ故彼の作曲家としての練度はともすると見落とされがちですが、本作では一切の「遊び」がない。正々堂々と、神妙に「ポップス」というものに向かい合っています。

その時に紡がれるメロディの素晴らしさたるや!当然ここにも彼のルーツであるオールディーズのポップスの影響は明確に残っていますが、そこに日本的な情緒、より踏み込んだ表現をすると「歌謡的」な表情が見えてくるのです。

メロディ・メーカーとしての大滝詠一を語るのであれば是非とも取り上げたい楽曲があります。『スピーチ・バルーン』というナンバー。

本作で最も静謐でメランコリックな楽曲ですが、他の楽曲で見られた壮麗なサウンドがやや控えめなセンチメンタルな質感だからこそ引き立つメロディの上質さが理解できるかと思います。ともすれば童謡のようにノスタルジックでもあり、同時にアダルティで感動的。ため息が漏れるほどに美しい旋律です。

こうした思わず口ずさみたくなる、全く嫌味のないナチュラルで開放的なメロディの数々。そこに大滝詠一のシルキーな歌声が参加することで、そのきめ細やかさはさらに輝きます。しばしばこのアルバムが「日本の夏」と紐づけて語られるのは、この開放的な旋律と大滝の軽やかな歌唱に由来するものでしょう。

そして、このメロディを引き立たせるための舞台装置として、ここまでに触れてきたリズムやサウンドの挑戦は機能しているのです。

フィル・スペクターに話を戻すと、彼は革新的サウンド・プロダクションで一時代を築きましたが、彼の生んだ楽曲群には前提として素晴らしいシンガーと練り上げられたメロディがありました。『ペット・サウンズ』にしても、ブライアン・ウィルソンという天才の作曲能力をこそ本質とする1枚です。

『A LONG VACATION』もそうした作品なのです。あくまでポップスとして成立するアルバム、それも極めて高水準で。

この事実に気づくこと自体はそう難しくありません。ただ、その背景に潜む膨大な数の参照と実験大滝詠一のアイデアとノウハウの集積を見抜いた上でこの事実に立ち返ることで、その鮮やかさは途方もなく眩しいものになるのです。この作品としての強度もまた、名盤と呼ぶに相応しい作品の条件なのですが。

盟友・松本隆の貢献

リズム、サウンド、そしてメロディ。一般にポピュラー音楽を構成する3つの要素についてそれぞれ思考を巡らせましたが、それでもなお語るべきことが2つも残っています。なんと強靭な名盤であることか。

残り2つのうち、まずは歌詞について。この点も本作を「邦楽史上の傑作」と呼ぶべき因子の1つです。日本は「歌」の文化と先ほど申し上げましたが、それは単に歌唱だけでなく、「歌詞」を重視することを含意します。

それは時に邦楽と洋楽を隔てる障壁ともなりますが、私個人の見解を明らかにすると、『A LONG VACATION』における歌詞を不要と断じるのはあまりにもったいないと考えています。なにせ、ほぼ全曲の作詞を担当しているのが、あの松本隆なのですから。

大滝とははっぴいえんどの同窓生にあたる松本ですが、細野晴臣や鈴木茂がプレイヤーやミュージシャンとして活動を展開した一方、彼は作詞家としてのキャリアを花開かせます。1970年代後半以降、歌謡の世界で松本隆の筆致はなくてはならない存在です。

松本隆の詩情として私が是非とも指摘したいのが、そのナチュラルな質感絶妙な婉曲です。言うなれば、物語的な歌詞ではなく絵画的な歌詞。情景が目に浮かび、それでいて想像力の余白を残すような詩世界。

いくつか歌詞を引用してみましょう。まずは『カナリア諸島にて』の冒頭より。

薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて

海に向いたテラスで

ペンだけ滑らす

夏の影が砂浜を急ぎ足に横切ると

生きる事も爽やかに

視えてくるから不思議だ

『カナリア諸島より』より引用

どうです、この実際的で情感的、それでいてどこか諦念を滲ませた歌詞表現。卓抜しているでしょう。この曲のメロウなメロディの質感とあいまって、歌詞世界の広がりは極めて美しく感ぜられます。

あるいは『雨のウェンズデイ』の結びの歌詞。

海が見たいわって言い出したのは君の方さ

降る雨は菫色 時を止めて抱き合ったまま

wow wow Wednesday

『雨のウェンズデイ』より引用

「降る雨は菫色」、この表現の鮮やかさときたら。思わず息を飲んでしまうものがあります。「菫色」という言葉の持つ響きの美しさをよくよく承知しているところから発せられる見事な言い回し。

こうした情緒的な表現は例に挙げた『木綿のハンカチーフ』に代表される職業作詞家・松本隆の十八番とするものではあります。そしてそこに、大滝は本作を完成させる最後のピースを発見したのではないでしょうか。

洋楽の方法論を紐解き、そこに極上の日本的メロディを融合させる。そうして生まれた和洋折衷の音楽には、どこまでも日本的な感性の松本隆の詩情が不可欠だったのではないかと。本作を「邦楽」として自覚的に見つめていたならば。

松本隆が作詞を担っていたはっぴいえんどは、「日本語ロック論争」に終止符を打った存在です。英米の文化であるロックに日本語の歌詞を紐付けることの重要性とその相互作用の美しさを、松本は誰よりも理解していると言っていいでしょう。だからこそ、単に古巣のよしみを超えた意味で、大滝は松本を起用したのだと思います。

有名な話ではありますが、『A LONG VACATION』発表前年、松本は愛する妹を病気で亡くします。絶望のあまり創作活動もままならず、本作への参加の打診にも断りを入れた松本に対し、大滝は「書けるようになるまでいつまででも待つ」と返答しました。(事実、『A LONG VACATION』のリリースは二度にわたって延期されています。)

ここには勿論、悲壮に明け暮れる旧友へのエールの意味も大いにあったでしょう。ただ、大滝詠一という執念の音楽家を思えば、松本隆の詩でなくては『A LONG VACATION』は成立しないという確信故の返答であったのではないかとも思うのです。

そして、その絶望から這い出た先に松本隆が見出した境地こそ、あの『君は天然色』で歌われる

想い出はモノクローム 色を点けてくれ

もう一度そばに来て はなやいで

美しのColor Girl

『君は天然色』より引用

でした。

松本隆という天才作詞家が、絶望の淵に見た光景。その残酷でありながら美しいヴィジョンが、この『A LONG VACATION』には封じ込められています。このことも音楽的偉業と並び、本作がいつまでも色褪せず、そして現実的な名盤であることの重要な要素だと、私は確信しています。

「J-Pop」の至上命題の達成としての、『A LONG VACATION』

ここまでで本作の音楽に関する言及は以上となります。最後に、この作品の持つ意義について。

決して邦楽を軽んじる意図はないという前提で主張したいのですが、ことポピュラー音楽において、日本は後進国です。アメリカやイギリスといった先進国の発明や革新に追従することで発展してきたという意味において。

その中で、邦楽の至上命題は「如何にして洋楽を邦楽化するか」というものだと私は認識しています。追従する他ないのであれば、せめてそこに一撃を。単なるジェネリックではなく、日本の音楽として確かな土着性を。

この絶望的な挑戦は、それこそはっぴいえんどによって終止符が打たれたとされる「日本語ロック論争」に端を発し、現代に至るまで繰り広げられてきました。

このように邦楽の歴史を「挑戦」の歴史と捉えた時、その一つの到達点こそがこの『A LONG VACATION』なのではないかと私は考えています。

大滝詠一という人物は、そもそも途方もない音楽的知見の持ち主です。オールディーズから音頭までを自身の作風に盛り込んでいることからもそれは明らか。その賢人が、自身の持ち得る発想の全てを詰め込んだのがこの『A LONG VACATION』であるという事実を重く見たい。

そしてこの作品は、リズムやサウンド、そしてメロディの一部に関しても洋楽からの引用をしつつ、「邦楽」としての独自性を獲得するに至っています。フィル・スペクターにも、ブライアン・ウィルソンにも、この奇跡的名盤は作り得ない。日本でしか生まれ得ない傑作なのです。

また、本作は大変なヒット・アルバムでもあります。「評価と売上は必ずしも一致しない」、それこそ『ペット・サウンズ』にも適用できる音楽評論の定石ではあるものの、こと邦楽の世界ではこの売上というのは英米のロック/ポップス以上に大きな意味があると私は認識しているのです。

黒人奴隷の嘆きから出発し、カウンターカルチャーとして反体制的性格をその本質に持つのがロックンロールでありそこから分岐したロックと言えるでしょう。しかしこと日本では、ロックにも歌謡曲的な再解釈を加えられ、大衆音楽=「J-Pop」としての色をより強めていきます。

その行程の是非は脇に置くとして、事実こうした価値観の相違がある。その中でこの『A LONG VACATION』は大衆に肯定され、歌謡的にも成功したアルバムなのです。そこにどれだけの音楽的野心があろうと、それを無視してなお余りある大衆性感覚的な上質さ

この両面においてここまでの高みに至った作品が、邦楽史上に他にあるでしょうか?単に素晴らしい名盤、意義深い重要作ならば思いつきますが、少なくとも私が見なす「邦楽の至上命題」をここまで完遂した作品は未だ生まれていないようにも感じてしまいます。

冒頭に本作を私の音楽体験でも有数の愛聴盤と表現しましたが、あえて批評的に『A LONG VACATION』に立ち向かったとしても、本作の気高さと素晴らしさは揺るぎないことをここで主張しておきたいと思います。

まとめ

いやあ、書いた書いた。書き始めるとどういうことか堅苦しい文体になってしまいましたが、きっと本作に生半な態度では臨めないという私なりの流儀が表れた結果なんでしょうね。

ものすごく高慢ちきな文章ではあるんですけど、あえて偉そうに、その上で突き崩すことのできない本作の偉大さを主張できたのではないかと思います。100記事目に相応しいいいレビューになった自負もかなりありますしね。

ちょっと民族主義的かもしれませんけど、日本人はもっと自国の音楽に誇りを持つべきだと前々から思っていて。K-Popの躍進を受けて、「日本の音楽が韓国に負けた」なんてコンプレックス意識丸出しで嘆く人もたまに見かけますけど、そもそも音楽って勝ち負けじゃないですし。

世界に出ていく必要がないだけの音楽産業の土壌がある国が日本ですし、その中でガラパゴス化した音楽が独自の進化を遂げている。それってすごく素敵だし、文化的に意味のあることでしょ?で、そのガラパゴス化のわかりやすい例、そして最良の成果としてこの『A LONG VACATION』はそびえ立っていると思うんです。

日本にはポール・マッカートニーもいないしボブ・ディランもいない。でも、日本には大滝詠一がいるし松本隆がいるんです。この事実がどれだけ誇らしいことか、そういう主張も最後にしておきたいと思います。それではまた。

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