前回の続き、1960年代洋楽史の解説第2回です。第1回はカテゴリからどうぞ。先に言っておきますがこのシリーズあと5回は続きますからね。
今回は予告した通り、「あのバンド」が音楽シーンに爆誕するところから。この記事で解説する数年間で、ポピュラー音楽は一気に現代的な色彩を帯びていきます。そういう意味ではハイライト的な回と言ってもいいんじゃないでしょうか。
さて、前置きもほどほどに、まずは1960年代初頭のイギリスに目を向けていきましょう。では、参ります。
スキッフル・ブーム
早速「彼ら」の話をしてもいいんですが、彼らの登場の伏線となるムーヴメントも軽く見ておきましょう。スキッフル・ブームについてです。
前回はもっぱらアメリカ音楽の動向を見ていきましたけど、その裏でイギリスにも重要な動きがありました。それがスキッフル。ものすごく大雑把に説明すると、アメリカのロックンロール・ブームに感化されたイギリスのティーンエイジャーが、簡素なバンドを結成していく流れのことです。
ブルースにソウル、カントリーからジャズに至るまで、当時流行の音楽って基本的にアメリカがルーツなんですよね。だからアメリカのミュージシャンはその文化的影響をダイレクトに引き継いで音楽を発展させることができるんですが、遠く大西洋を隔てたイギリスではそうもいかない。
だからイギリスの若者にとっては、アメリカ産のまったく新しいロックンロールという音楽を、カバーすることで表現するしかなかったんです。このムーヴメントは大きな規模に拡大し、1950年代の末には3万組ものスキッフル・バンドが結成されていたようです。
そのスキッフル・バンドの中には、「あのバンド」の面々、他にもミック・ジャガーやロジャー・ダルトリー、ジミー・ペイジにデヴィッド・ギルモアと、のちにUKロックを盛り立てる重要人物たちの姿がありました。スキッフル時代に彼らが成功した訳ではないんですが、怪物級の才能がこの段階で目覚めつつあったということは知っておきたいですね。
ザ・ビートルズのデビュー
さて、そろそろ「あのバンド」、「彼ら」なんてもったいぶるのもやめにしましょう。
スキッフル・ブームの広がるイギリスの港町リヴァプールで、「ザ・クオリーメン」というバンドが結成されました。彼らは幾度かのメンバー・チェンジを経て、「ザ・ビートルズ」と名乗るようになります。史上最も成功したロック・バンド、ポピュラー音楽最大の音楽家の誕生です。
1962年にデビューしたザ・ビートルズは、2ndシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』で一気に注目を浴び、デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』は30週連続でUKチャート首位を独占。ちなみにこの作品を首位から引きずり下ろしたのは彼らの2枚目のアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』で、この2作でバンドはチャート1位の座に1年にわたって居座り続けました。やっべえ。
ポピュラー音楽史を俯瞰で見ていくと、彼らの登場って実に運命的。もし「ポピュラー音楽史における最大のターニング・ポイントは何か?」と聞かれたら、私は迷うことなく「ザ・ビートルズのデビュー」と答えます。その要因は主に3つ。
ザ・ビートルズの衝撃① 「白人が成し遂げたロックンロールの完全復活」
前回、「アメリカの大衆はブラック・ミュージックを再び求め始めた」ということを書きました。イギリスでも、スキッフルの流行が示す通り、ロックンロールをはじめブラック・ミュージックは支持されている状況です。
その大衆に対して、ザ・ビートルズは完璧な回答を出したんですよね。1950年代に活躍した先達へのリスペクトも滲ませ、きっちりとロックンロールしながら、1960年代的な甘いポップスの成分も感じさせる楽曲。単なる先祖返りではなく、時代に対応した新しいロックンロールをザ・ビートルズは発信したんです。
彼らはイギリスの白人ですから、ブラック・アメリカンのフィーリングというのは理解しにくいものがあるのでしょう。そのある種のコンプレックスに彼らは自覚的です。特に初期のジョン・レノンはモータウンからも強く影響を受けていましたから、そうした「黒い」音楽への敬意を、白人の感性で打ち出すというのは実に斬新だった訳です。
この「白人によるロックンロール」であるザ・ビートルズが世界的成功を収め、多くの白人アーティストがそれに追従したことで、今日の「ロック=白人文化」というある種の誤解が生まれてしまったとも言えます。もっとも、この「白人によるロックンロール」は同時期にアメリカでも見られた動向なのですが。それはこのセクションの後半で見ていきます。
ブラック・ミュージックを愛好するザ・ビートルズの活躍が、ロック音楽におけるブラック・アメリカンの存在感を薄めてしまったというのはなんとも皮肉な話です。ただ、そうなっても仕方がないほどに、ザ・ビートルズの存在感は圧倒的だったんですね。
ザ・ビートルズの衝撃② 「イギリスから生まれたロック・スター」
第二に、ザ・ビートルズがイギリスのバンドであるというのも非常に重要です。それまでいくつかの例外こそありますが、基本的にアメリカという絶対的市場においてアメリカ国外のアーティストは受け入れられてこなかったんです。それを打破したのが彼らなんですよ。この話は「英国侵略」の章で詳しく語りますが。
彼らが成し遂げた、いわば「ポピュラー音楽のグローバル化」というのは非常に大きな意味がある出来事だと思っています。当然すぐ後に起こる「英国侵略」だってそうですし、現在進行形で巻き起こっているK-Popのムーヴメントだって、ザ・ビートルズの成功がなければなかったかもしれない。
もちろん、真の意味でのグローバル化には随分と時間がかかります。イギリスだって結局は英語圏の欧米諸国ですから、アフリカやアジアのミュージシャンと同じハードルがあるとは言えないでしょう。それでも、アメリカの閉鎖的な音楽市場に風穴を開けたことの意味は大きいと思うんですよね。
ザ・ビートルズの衝撃③ 「自作自演」
最後に、彼らが自作自演のバンドだったというのも革新的でした。今でこそ「自分たちで作詞作曲してこそミュージシャンだ」みたいな主張がまかり通るようになりましたが(個人的にはどうかと思いますが、まあそれはそれとして)、プレスリーやモータウンのスターは基本的に職業音楽家に外注していました。表現者と作曲家は別の仕事、というのが普通の時代だったんです。
ただ、ザ・ビートルズは自分たちで作った曲を自分たちで演奏しました。エディ・コクランのような先駆者こそいましたが、正直言って彼らは作曲の精度が一枚も二枚も上をいっています。彼らはチャーミングなアイドルでもあると同時に、優れた作曲家集団でもあった訳です。
この自作自演のスタイルに感化されたアーティストは非常に多いです。ザ・ローリング・ストーンズのジャガー/リチャーズなんてその最大の例ですよね。
そしてもっと言えば、この価値観の定着が1960年代中期以降に見られる「アートとしてのロック音楽」につながっていきます。自作自演は、商品としての音楽を脱する契機でもあったのではないかと。実際ポピュラー音楽の芸術化においても、ザ・ビートルズの存在感って強烈ですから。
ビートルズ・ショック前夜のアメリカ
ただ、ザ・ビートルズがデビューするや否や世界的スターになったかというとそういうことでもなく。まだまだ情報社会は夢のまた夢、遠く大西洋を隔てたイギリスの新人バンドの話はリアルタイムでアメリカには入ってこなかったんですね。それに、ここでも当時のアメリカ音楽シーンにあったドメスティックな性質が作用しています。
ここではビートルズ・ショック前夜のアメリカで人気の音楽について見ていきましょう。
「音の魔術師」フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」
まず注目せねばならないのがこの人、フィル・スペクター。ただしこの人、歌手でもミュージシャンでもありません。音楽プロデューサーです。
前回の記事で1960年代最初期にはポップスが支持されていたということはお話しましたよね。スペクターは、そういうポップスの文脈の中で登場します。ブリル・ビルディングという多くの音楽関係会社が入っていた建物があったんですが、そこで「生産」される楽曲をシンガーに歌わせる、そういうシステムがポップスの業界では構築されていて、スペクターもこのブリル・ビルディングに所属していました。
ただ彼はそのアレンジメントの手法がそれまでの音楽とは一線を画しています。彼のスタイルは、何人ものセッション・ミュージシャンを集結させ、そこにエコー処理をたっぷりとかけることでより重厚かつ渾然一体としたサウンドを生み出すというもの。このサウンドは「ウォール・オブ・サウンド」と称され、後世に絶大な影響を与えました。
日本を代表するスペクター・フォロワー、大滝詠一に言わせれば、「ザ・ビートルズがいなければフィル・スペクターが天下を取っていた」とのこと。実際、「フィル・スペクターのサウンド」を求めてレコードを購入する人が大量発生した訳ですからね。ヴォーカルやギターといった「生」の部分ではなく、サウンド全体として個性を発揮するというアプローチを最初に試みた彼の功績はきっちりと認識しなければならない部分です。
アメリカでの新しいブラック・ミュージックの在り方
同時にチャートを賑わせたのがザ・ビーチ・ボーイズ。彼らが展開したのは、「サーフ・ロック」という軽快なロックンロールにカリフォルニアのサーフィン文化をブレンドした音楽性。イギリスだけではなくて、アメリカからもロックンロール復興の狼煙は確かに上がっていたんです。
ここがちょっと語られる機会が少ない気がしてるんですよね。「ロックのルネッサンスはビートルズだ!」なんて思っている人も多いですけど、同時多発的なんですよ。あくまでビーチ・ボーイズはビーチ・ボーイズとして、ロックンロールへの渇望に回答を準備していたんです。
それに前回見たようにモータウンだってヒットを連発していますし、ザ・フォー・シーズンズを筆頭に、ソウルを白人が表現する「ブルー・アイド・ソウル」のアーティストも人気を博していました。「ブラック・ミュージックの再注目」は、しっかりとアメリカ国内で成果を出しているというのは見落としてはならないと思います。
「英国侵略」(ブリティッシュ・インヴェイジョン)
さて、ザ・ビートルズは決してシームレスに世界的成功を収めた訳ではないと言いましたが、それでもデビューから2年後の1964年に、彼らはアメリカ進出を果たします。やっぱりポピュラー音楽って、アメリカで成功することに大きな意味があるんですよ。この価値観、1990年代くらいまで尾を引くものなので頭の片隅に入れておいてください。
いきなりですが、1964年4月第1週のビルボード・チャートTOP5を見てみましょうか。あまりに有名なエピソードなので「どうせアレだろ」と勘付いている方も多いでしょうがここはご辛抱を。
- 第1位 『キャント・バイ・ミー・ラヴ』/ザ・ビートルズ
- 第2位 『ツイスト・アンド・シャウト』/ザ・ビートルズ
- 第3位 『シー・ラヴズ・ユー』/ザ・ビートルズ
- 第4位 『抱きしめたい』/ザ・ビートルズ
- 第5位 『プリーズ・プリーズ・ミー』/ザ・ビートルズ
はい、ザ・ビートルズがシングル・チャートTOP5独占です。やっばいでしょコレ。人気があるとかそういう次元じゃないです。まさしく社会現象、完全に無敵状態です。
で、このザ・ビートルズの大成功を号令に、数多くのイギリスのバンドがアメリカ進出を果たす訳です。ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ザ・キンクス、ジ・アニマルズ、エトセトラエトセトラ……という具合。
「アメリカ国外の音楽はアメリカで受けない」なんて因習を吹き飛ばして、彼らは次々に成功を収めていきます。その勢いはまさに侵略、このムーヴメントを称して「英国侵略」(ブリティッシュ・インヴェイジョン)と呼びます。これ、本当に重要な出来事です。
ポピュラー音楽の世界の二大大国といえばUSとUKですが、その流れって単にザ・ビートルズだけの功績じゃなくて、むしろ後続のバンドの成功あってこそなんですね。この「事件」をもって、イギリスはポピュラー音楽の中で巨大な存在感を発揮していくようになります。
ただこの「英国侵略」、アメリカ音楽にとっては困りものでもあったんです。どういうことかというと、誰も彼もがイギリス産の音楽に夢中になったせいで、アメリカ国内の音楽が売れなくなってしまいます。「ザ・ビーチ・ボーイズとフォー・シーズンズ以外売れなくなった」なんてのは当時のアメリカ音楽業界を表した有名な文句ですけど、それくらい圧迫されちゃうんですね。これはもう実力と結果が全てなので仕方ない弊害なんですが。
まとめ
さあ、今回のまとめです。
- スキッフル・ブームからザ・ビートルズが登場。一躍イギリスで成功を収める。
- アメリカではフィル・スペクターの音楽やモータウン、ザ・ビーチ・ボーイズが流行。
- ザ・ビートルズがアメリカでも大成功。後を追ってイギリスのバンドがアメリカ進出を果たす。(「英国侵略」)
こういう流れです。先に予告しておきますけど、このシリーズの残りの回全てにザ・ビートルズの名前は出てくると思います。これは別に私がザ・ビートルズのファンだからという訳ではなく、彼らの足跡はそのまま1960年代の音楽の進歩に一致するんです。それくらいずば抜けている存在だってことは、ここでも改めて主張しておきたい。
さて、次回は当時の社会情勢を踏まえつつ、ポピュラー音楽が更なる深化を遂げる瞬間を見ていきましょう。今回の主役はザ・ビートルズですが、次回は1960年代のもう1人の主役がいよいよ登場。それでは、次回「ギターを持った詩人は、まるで転がる石のように」でお会いしましょう。
コメント
いつも楽しく拝見させていただいてます!
本旨とはズレる部分に対するコメント(リクエスト)で申し訳ないのですが、
『自分たちで作詞作曲してこそ〜個人的にはどうかと思う』
の辺りについて、いつか掘り下げて語ってみてほしいです!
(特にアマチュアバンド界隈での「オリジナルやってるバンドが偉い」的なムードに違和感を持ち始めまして…。)
もちろん、他の内容の記事の更新もとても楽しみにしています!
コメント/リクエストありがとうございます!
自作自演の絶対視とでも言うべき問題でしょうか、私もいずれ扱いたいと思っていたテーマです。
1960年代史のシリーズが一段落したら書かせていただきますので、しばらくお待ちください!