ときに有識者の皆様におかれましては、この2023年の始まりは『ぼっち・ざ・ろっく!』ロスとともにあったことかと思います……何?観ていない?今すぐ観てきてください。
そんなわけで今年最初の投稿は、ここ1ヶ月私の脳内を埋め尽くしている『ぼっち・ざ・ろっく!』に関して。この前投稿した年間ベストでも、結束バンドの1stを27位という忖度に満ち満ちた順位にしてしまうくらいにはドストライクの作品でした。
映画にしろアニメにしろ、音楽が題材ってだけでのめり込みやすい単純な感性の持ち主ではあるんですけど、この『ぼっち・ざ・ろっく!』、音楽アニメとしてはぶっちぎりで個人的1位ですよ。いや、『BECK』もあるな……ま、まあとにかく、素晴らしい作品だったことは事実です。今回は主観的な総括といいますか、あくまで「アニメ好きの音楽オタク」という私のスタンスからこの作品について語っていければと思います。
「バンド」への解像度が高すぎる演出
まず私が引き込まれたのはここですね、「バンド」ってものへの理解がすごい高いレベルでされている作品なんですよ。アニメ的なファンタジー性ももちろんあるんですけど、ライブの演奏シーンでの演出がむちゃくちゃリアル。これ、程度にかかわらずバンド活動したことある人ならわかると思うんですけどね。
まず1つに、アニメのハイライトでもあった第8話『ぼっち・ざ・ろっく!』の『あのバンド』の演奏シーン。
覚醒したぼっちのキレッキレのギター・ソロだったり、PAさんの空気が読めすぎる照明演出だったり、あるいはアニメだからこそできるギタリストの一人称視点の表現だったり、見どころはたくさんあるんですけど。すごく細かくて秀逸なのがギター・ボーカルの喜多ちゃんのギター・ストロークですよ。
この肘からガシガシ力づくで弾いちゃう感じ、むちゃくちゃ「ギター始めたての人の弾き方」なんですよね。そんなとこまで再現せんでも……とちょっと面食らうレベルで演出に力入っているのがよくわかるんじゃないかと。
それでいうとYouTubeにはないんですけど、『あのバンド』の前に演奏された『ギターと孤独と蒼い惑星』という楽曲。突然の台風でお客さんもまばら、アウェーな空気をビシビシ感じながら演奏するんですけど、すごくもたついたお世辞にも上手いとは言えない演奏になっちゃうんですよ。その「もたつき」がむちゃくちゃリアル。特にドラムかじってた身からすると、「ああ、自分のせいで演奏ぐだってるけど修正する手段がねえよ……」というあの身震いする感覚をばっちり再現しやがります。そこまでせんでも。
最終話の文化祭でのライブ、『星座になれたら』のシーンもそれでいくと生々しいですよね。バンドものアニメの金字塔『けいおん!』では「家にギターを忘れてくる」という「お前やる気あんのか?」というトラブルが発生した訳ですが(※私は『けいおん!』も大好きです)、『ぼっち・ざ・ろっく!』では「ペグが壊れてチューニングが狂い、しまいには1弦が切れる」というすごく「ありがち」なアクシデントが起こるんですね。どうです生々しいでしょ?
でもって、それを解決するべく喜多ちゃんのアドリブで間を繋ぐんですが、これがまた「ギター初心者ならギリギリやれそうなレベルのアドリブ」に留まっていて。基本的にコードをなぞるだけの進行で、ぶっちゃけギター・ソロとして魅力的ではないんですよ。もっとカッコいいソロにだってできただろうに、ここにすらリアリティを持たせる配慮ったらねえです。
で、喜多ちゃんが繋いでくれた時間でぼっちが出した解決策がボトルネック奏法っていうのがもう爆笑モノですよ。まさか「美少女アニメ」のフォーマットでボトルネック奏法なんて単語に出会うとは思ってませんでした。でも、実際腑に落ちる解決策ではありますよね。ソロ・プレイヤーとしてはプロ級という設定もある訳ですから、ぼっちがボトルネック奏法できても違和感はないし、実際問題は解決してますし。いや、それにしてもボトルネック奏法か……
「ぼっち・ざ・ろっく!」=「陰キャ」のためのロック
で、バンドに対する解像度の高さで言いますと、ライブ・シーンの凝りっぷりだけじゃないんです。もっと根本的なキャラ造形、ここもお見事で。まあこれは原作漫画の段階でよくできてるんですけど。
主人公であるぼっちこと後藤ひとり。彼女の最大の人間的な個性は「陰キャ」であることです。人の目を見て話すことはとてもじゃないけどできないし、キラキラした青春には病的なレベルでコンプレックスを抱えているし、そのくせ承認欲求は人一倍強いし、勝手に妄想の沼にハマって暴走するし、夢は高校中退。美少女アニメとしては如何なものかというレベルで「陰キャ」でしょ?
じゃあその問題を克服していくストーリーになっているかというと、決してそんなことはない。もちろん彼女なりに成長していく描写は随所にあるんですけど、それは彼女の「陽キャ」化とはまったく違うベクトルですからね。むしろ、「陰キャ」のままどこまで音楽で自己表現していけるのかというのが本作の大事なテーマです。
それにぼっちに限らず、結束バンドの他のメンバーも別に「陽キャ」ではありませんから。喜多ちゃんは例外なんですけど、伊地知虹夏と山田リョウに関しては二分するならば「陰キャ」だと思うんです。コミュニケーション能力は高いですけどね。アニメ第9話『江ノ島エスカー』で喜多ちゃんと他の3人の性格の差がすごく顕著に表現されています。
そして唯一の例外、「陽キャ」として明確に設定されている喜多郁代にしても、彼女にとって未知の存在である「陰キャ」のぼっちに感化されていく訳じゃないですか。その関係性の具象化として『星座になれたら』という楽曲がある訳でね。ここにも、前提として「陰キャ」であることを肯定する作品の姿勢が感じられます。
で、音楽オタク的な観点に戻るとですね。すごくエゴイスティックな主張なんですけど、ロックはいつでも「陰キャ」のためのものであってほしいんですよ。「陰キャ」「陽キャ」という二項対立が乱暴ならば、それは「オルタナティヴなもの」と言い換えてもいい。
メジャーで人気がある「みんな」のもの。それでは渇きを癒せない、そんな人間はこの世にたくさんいるはずです。私だって原点はそこにあるし、きっと多くのロック・ファンの原体験はその渇きにあるでしょう。(それとほんのちょっぴりの「マイナーな音楽聴いてる俺/わたしカッケー」という青臭さもね)
それを『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品は肯定してくれます。「みんな」ではない誰かのための、再び乱暴な表現に立ち返れば「「陰キャ」のためのロック」。だからこそ、本作で重要なモチーフになっているのが「「陰キャ」のためのロック」を鳴らし続けたASIAN KUNG-FU GENERATIONなんです。
00’sの邦楽ロック、もう少し厳密にいくならその中でもメジャー・シーンにおけるオルタナティヴ・ロックは間違いなくBUMP OF CHICKENとASIAN KUNG-FU GENERATIONによって定義されると思うんですけど、BUMP OF CHICKENはどんどん「みんなのロック」になっていった節があります。そのことは一切否定する気もないですし、ナードな主張のままに「みんな」に訴求していくBUMP OF CHICKENだって素晴らしいバンドです。
ただ、こと「音楽オタク」となるとASIAN KUNG-FU GENERATIONをより強く支持する人の方が多い印象があるんですよね。それはやっぱり、「みんな」の方を向こうとしない、変わらずに「陰キャ」の味方であろうとするバンドのスタンスに理由の1つがあるような気がしていて。
で、結束バンドの4人の命名の由来になったのは原作からですけど、アニメでもその意向に寄り添っています。アニメ各話のサブタイトルは彼らの楽曲をもじったものですし、何より最終話のエンディングですよ。『ワールドワールドワールド』収録の名曲、『転がる岩、君に朝が降る』のカバーです。
楽曲の導入までが実に秀逸なんですよ。劇的ともいえる文化祭ライブでアニメ本編を終えることだって十分できたろうに、その後の日常パートまでを描き、決して物語は大きく動くことなく、しかし少しずつ進んでいく。多くの転換点が夜という舞台設定のもとで描かれた本作にあって、眩い朝の一幕、ぼっちのなんでもない「今日もバイトだ」という独り言から『転がる岩、君に朝が降る』が始まります。この演出は流石に卑怯ですね。
そんでまたこのカバーがすげえんだ。特筆すべきはヴォーカル・ディレクションですよね。意図的に頼りなく、か細い歌声で歌われているんです。ぼっちを演じた青山吉能の他の歌唱を聴いてもこういう個性はなかったので、後藤ひとりというキャラクターに接近した結果だと思います。
もう少し踏み込むのであれば、その頼りなさというのが極めて一人称的な『転がる岩、君に朝が降る』に実に映えている。それはやっぱり「「陰キャ」のためのロック」的と言ってもいいんでしょうけど、すごく必然性のあるカバーになってるんですよね。キャラ名の元ネタだから最終話でカバーしてみました!みたいな軽薄さのない、アニメ全体のトーンと主張からごく自然に生まれたかのような1曲でした。
アルバム『結束バンド』
アルバム『結束バンド』総評
さて、あくまで音楽オタクとして『ぼっち・ざ・ろっく!』を語るのであれば、アルバム『結束バンド』に触れないわけにはいきません。年間ベストでも取り上げた程度には愛聴していますし、なんならこのアルバムのリリースを待ってからランキングの最終版を作りました。
まず作品全体に感じられるのは、アニメ本編でもていねいに描写された邦ロックへのリスペクトですね。00’sJ-Rockリバイバルとすら言える音楽性です。楽曲でいうと、もろに下北系ギター・オルタナティヴな『ギターと孤独と蒼い惑星』、初期9mmにも通ずる「残響系」的エッジが痛快な『あのバンド』、それからロー・ファイなサウンドと切ないメロディ・ラインが如何にもインディーズ・バンドらしい『ひとりぼっち東京』あたりでしょうか。こういう部分がかつてのロック・キッズにぶっ刺さるところでしょうね。
ただ、このオルタナティヴ・ロックっぽさがそこまで強いアルバムに仕上がっているという訳でもなく。主に著名アーティストが提供したED群に顕著なんですけど、ここは結構アニソンっぽい作りになっていて、どちらかというと10’sJ-Rockのポジティヴィティが強く感じられます。顕著なのはKANA-BOONの谷口鮪によるアニソン・ギター・ロック全開の『Distortion!!』や、the peggiesの北澤ゆうほが提供したガーリーな『なにが悪い』、この辺です。
どの楽曲もギターとベースとドラムでアンサンブルが構築されているので、スタジオ・ワークフル稼働のポップスとは違った聴き味になっているのは事実ではあります。それでもフラストレーションの爆発のさせ方が明るすぎるといいますかね。もっと鬱々とした、八つ当たり気味な表現で一貫していてほしかったというのが本音なんですよ。
それでいくと、アニメ最終回での文化祭ライブで披露された2曲、『忘れてやらない』と『星座になれたら』も急にポップ成分が強くなるのが違和感ありますね。『忘れてやらない』に関しては演奏のいい意味での粗さ、猪突猛進する8ビートは確かに00’sっぽさはあるんですけどちょっとオーバーグラウンドすぎるし、『星座になれたら』はthe band apartを彷彿とさせるファンキーで洒落た16ビート・ナンバーで、楽曲としてはトップ・クラスによくできているのに方向性の上でややちぐはぐ。
で、この『星座になれたら』で感じた「楽曲としては文句ないけどアルバムで聴くとなぁ……」という瞬間がアルバムの中で何度か訪れるんですよ。「音楽はアルバムで聴いてなんぼじゃ」派閥に属する私としてはここがどうにも気になって。ほんとに曲それぞれの練りっぷりや思い入れだけなら年間ベストでもTOP10くらいに入れたい作品だったのに、ここのところで勢いを削がれてしまいました。
ただ、今触れた2曲から繋がっていくアルバムの締めくくりはお見事で。素晴らしい透明感とちょっぴりシューゲイズな儚さがエモーショナルに広がる『フラッシュバッカー』から前述の『転がる岩、君に朝が降る』の名カバーでひっそりと閉幕する展開は若干あざといにしてもいいじゃないですか。
ただ繰り返しになりますけど、そういう方向性でアルバムをまとめる用意があるのであれば、なおさら道中のばらつきが気になってしまうんです。すごく高度な次元での物申しではありますけど。なんだろう、スピッツの『フェイクファー』に近い違和感が個人的にはあるんですよ。『フェイクファー』も『結束バンド』も大好きだけど、思うところがないでもないという。
『結束バンド』の「ズルさ」
で、この作品に一番強く感じる部分なんですけど。『結束バンド』ってズルいアルバムだと思うんですよね。
というのも、さっきくどいほど「「陰キャ」のためのロック」というものを取り上げましたけど、それを音楽批評的に表現するなら「パーソナルな心象風景とドラマを描くことで親密さを与えるロック」とでも解釈できると思うんです。心の揺れ動きや人間性の部分がしっかりと音像に乗ることで表現されるタイプの、一人称の音楽。
これ、もちろんASIAN KUNG-FU GENERATIONを筆頭にした00’sJ-Rockの一群にも言えますし、もっと古くにはジョン・レノンだったりスミスだったりニルヴァーナだったり、そういう内省的ロックの古豪にも通用するキャラクターだと思っていて。『結束バンド』もその文脈に連なる作品ではあるんですが……あまりに明示的すぎる。
もっとも、構造上不可避ではあるんですよ。だってアニメ作品に付随する音楽ですからね。結束バンドがどういうバンドなのか、歌詞を手掛ける(という設定の)後藤ひとりが如何なる人間か、何を訴えたい作品なのか。これがすべて作品の中で描かれてしまっているので、聴き手は本作をあまりに簡単に掴み取れてしまう。ものすごく意地悪な表現をすると、即席のカタルシスがある作品です。
でも私がズルいと評したいのはむしろその先にあって。そのお手軽さ、露骨な物語性の付与というのを恣意的に取り入れたアルバムなんです。いやはやズルい。だってそんなの感動しちゃうじゃないですか。
アルバムのスタートはアニメOPの『青春コンプレックス』だし、劇中に登場した4曲はごていねいにも登場した通りの順番で収録されているし、なんなら文化祭ライブの2曲は続けざまの収録。それでアルバムのラストは作品の最後で聴ける『転がる岩~』なんですからね。『結束バンド』を聴こうという人間のおおかたはアニメを見た上でのことでしょうから、物語性を承知しているリスナーを徹底的に刺す構造になっているんです。
こんなの、普通のロック・バンドにはできっこないです。だからその分手を尽くして音楽で表現するんですけど、『結束バンド』に関してはこの明示性にあぐらをかくことすらしない。ちゃんと音楽作品としても一定以上のクオリティを伴ったうえで、その裏技を使ってくる。これで好きにならない訳がないんですよね。持ち上げすぎかもしれないですけど、あの『アビー・ロード』にも似た性格のアルバムなんです。あれだって、ザ・ビートルズのレガシーを知っていればもっと深く楽しめる、いわば「群像劇「ザ・ビートルズ」のサウンド・トラック」ですから。
なんなら当初、アルバム『結束バンド』のディスク・レビューという形でこのコンテンツに触れる予定だったんですよ。そのためにアルバムを聴き込んでもいたんですけど、聴けば聴くほど「果たしてこの感動は音楽によるものなのだろうか?」という面倒くさい猜疑心が湧いてきて。で、考えるうちに『結束バンド』は『ぼっち・ざ・ろっく!』というドラマを踏まえたうえで100%の感動に到達する、インスタントかつハイ・コンテクストな代物だろうという結論に達したわけです。
であれば、アニメに対する思い入れ、アニメの妙味のところを先に説明して、ようやくアルバム『結束バンド』について触れられる。順序としてはこれが最適。そういうことで、珍しくアニメ作品に対して鼻息荒く語ったんですね。
音楽界隈でもかなりアツい作品でしたし、もしかしたらアニメに関心のない音楽ファンの中は先にアルバムだけ聴いたって方もあるとは思うんです。ただ、私としてはそれでは片手落ち。是非とも包括的に『ぼっち・ざ・ろっく!』、そして『結束バンド』を楽しんでいただきたいですね。そんな感じです。
コメント
ぼっち・ざ・ろっくをアジカンの後藤さんが見ていて「このアニメ刺さる」とツイートして話題になってました。また、若い子たちがアジカンの演奏をYoutubeでみて「こんなうまいのに埋もれてるインディーズバンド」とツイートして、アジカンで青春過ごした御年30代以上の世代を青ざめさせたり、いろいろと話題の多かったアニメでした。今はネコも杓子もヒップホップが隆盛ですが、ロック大人気80年代を過ごしていた自分には懐かしさも感じるアニメでもありました。(ヒップホップはヒプノシスマイクで知り、打楽器リズムで歌うからか音痴でもカッコよく歌えるので、カラオケで歌い倒してます)