さあ、もはや連載とも言えないマイペースぶりを発揮しているMJ全アルバム・レビュー。今回は『バッド』編ですね。過去のレビューは↓からそれぞれどうぞ。
一般的な(そしてオタクな)音楽ファンにとって、ここからのMJの軌跡ってあまり認知されていない気がするんですよね。再評価目覚ましい『オフ・ザ・ウォール』に、言わずと知れた超ド級クラシックの『スリラー』。ここまではマストで通るけど、そっから先はまあいいか……みたいな肌感覚、ありません?
これがもうとんでもなくもったいない。「キング・オブ・ポップ」としてのMJが楽しめるのは、むしろこの『バッド』以降と言っていいですからね。このシリーズでしっかりと言及していきたいと思います。それでは早速、レビューしていきましょう。
『バッド』制作の背景
この企画、音楽作品を通じて「マイケル・ジャクソン史」を構築するという裏テーマもあるので、まずは『スリラー』から本作に至るまでの道のりを軽く見ておきましょうか。
『スリラー』で全人類ドン引きレベルの大成功を収めたMJですが、その間にあった大きなイベントとしては2つでしょうか。まず1つ目が、ザ・ジャクソンズ脱退です。
そう、この辺あまり知られていないんですけど、『スリラー』までって「ザ・ジャクソンズのフロント・マンのソロ作品」なんですよ。正直なところセールスでも注目度でも、もうザ・ジャクソンズとは比較にならないレベルであったことは事実とはいえ。
ただ、1984年についにMJはザ・ジャクソンズを脱退します。よりソロ・アーティストとしての高みを目指す上で、当然の判断と言ったところですか。この「ソロ・アーティストとしての挑戦」というのは、『バッド』を語る上ですごく重要なテーマなので覚えておいてくださいね。
そして2つ目が、チャリティ・プロジェクト「USAフォー・アフリカ」への参加ですね。イギリスでの「バンド・エイド」に触発される形で発足したこのイベントで、MJは古巣モータウンの盟友ライオネル・リッチーと共に稀代の名曲『ウィ・アー・ザ・ワールド』を作曲。
この曲をもって、MJに「メッセンジャー」としての側面が強く表れるようになったと私は分析しています。彼は幼少の頃から、将来の夢として「お城のような家に住みたい」「音楽で人を楽しませたい」というものに加えて「世界中の貧しい人を救いたい」と語っていたんですけど、それを音楽活動の中で主張することになった初めての瞬間ですからね。
で、これも『バッド』において大事になってくるポイントだと思っています。より厳密にいうと『バッド』以降のMJ全体に関わるテーマなんですけどね。
プリンスへの挑戦状
この『バッド』というアルバムを音楽的に分析していく中で欠かせないのが、本作から一気にクラシカルなR&Bのモードが減退しているという部分です。
さあ、まずはこの曲を聴いてもらいましょう。表題曲『バッド』です。
イントロの強烈なシンセサイザーに始まり、16ビートのハイハットにエッジィなベース・ライン。前作『スリラー』の段階でかなりMJはブラック・ミュージックにポップスとしての手心を加えていましたけど、ここにきてより顕著になっているのではないかと思います。
有名なエピソードなんですけど、この楽曲、当初はなんとあのプリンスとの共演が予定されていたんです。結局は殿下に「この曲は僕が参加しなくてもヒットするよ」と体よく断られてしまったんですけど、このエピソード、ただのトリビアにとどまらない重要性があると個人的に感じていまして。
それは、本作がマイケル・ジャクソンなりの「ミネアポリス・サウンドへの回答」だったのではないかという考察の根拠になり得るというもの。作品そのものについての解説からはちょっと離れますけど、ここのところを見ていきましょうか。
1980年代のポップス・シーンにおいて、マイケル・ジャクソンと比肩し得る唯一の才能の持ち主、それがプリンスです。ソウルにファンクにロックにニュー・ウェイヴに……これらをデジタルな質感の元でごちゃ混ぜにしてしまった彼の唯一無二のサウンドは、彼の出生地の名を冠して「ミネアポリス・サウンド」と呼ばれました。
ディスコの終焉以降、ソウル/R&Bはブラック・コンテンポラリー的なシックな質感を志向するか、ポスト・ディスコ的な保守的先進性に舵を切るかの二択だった訳ですけど、そこにプリンスはまったく新奇な「ミネアポリス・サウンド」で風穴を開けたんです。
コレを指を咥えて見ているMJじゃないですよ。「ミネアポリス・サウンド」をMJなりに咀嚼する作業は絶対にあったはずです。そしてその成果こそが、この『バッド』というアルバム作品なのではないかと思っていて。
特にアルバム前半(余談ですけど、『バッド』の頃には音楽のフォーマットはCDに以降しつつあったので、A面B面という表現は使えなくなっていることはご理解ください)で強く感じられる部分で。『バッド』から『ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール』、『スピード・デーモン』と3曲立て続けにデジタルでアグレッシヴなファンク・チューンをドロップしているのがわかりやすいですよね。
それ以降も、モータウン時代からの盟友、スティーヴィー・ワンダーをゲストに迎えての『ジャスト・グッド・フレンズ』や、ディズニーパークのアトラクション「キャプテンEO」の劇中曲『アナザー・パート・オブ・ミー』もそうした文脈で理解し得る楽曲です。『リベリアン・ガール』が唯一の例外というか、前半における箸休めの役割を果たしているのもそつがないですね。
その上で、プリンスほどエキセントリックにならないのがマイケル・ジャクソンの意地でしょう。あるいは彼の矜持と言ってもいいかもしれない。ここはやっぱりモータウン出身であることが影響していると私は分析しているんですけど、「商品としてのポップス」に極めて自覚的です。
それが感じられるのが、さっきも名前を挙げましたけど『ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール』。『オフ・ザ・ウォール』以降蜜月な関係にあった本作のプロデューサー、クインシー・ジョーンズのお気に入りです。
この曲もデジタルなファンク・ビートという意味ではこのアルバムのモードにのっとっているんですが、裏拍のキーボードなんかに顕著ですけど、そこにしっかりとクラシカルなグルーヴも同居しているでしょ?こういうバランスを取れるのが、MJのポップ・スターぶりを象徴している気がします。
『スリラー』を超える楽曲の強度
さて、そろそろアルバム後半も見ていきましょうか。そんでもってここでの展開、もう火の玉ストレートの連続なんですね。それこそあの『スリラー』における『スリラー』〜『今夜はビート・イット』〜『ビリー・ジーン』に匹敵するクオリティです。
まずは『マン・イン・ザ・ミラー』。ここで作品のトーンにグッと変化がつくんですね。ゴスペルを取り入れた荘厳さが、ともすればミネアポリス・サウンド一辺倒だった作品に一気に深みを与えます。MJの歌唱も天晴で、『スリラー』のレビューで語った「黒人的歌唱からの意識的な脱却」を試みつつ、それでいてどうしようもなくソウルフル。全米1位を獲得したのも納得です。
お次はアルバムの先行シングル『キャント・ストップ・ラヴィング・ユー』。さっきの『マン・イン・ザ・ミラー』を作曲したQ・ジョーンズの秘蔵っ子、サイーダ・ギャレットとのデュエットなんですが、前曲の流れを引き継いだかのようなクラシカルなラブ・バラードです。こちらも全米1位。
続きまして『ダーティー・ダイアナ』。路線で言うと『今夜はビート・イット』に続く、「MJ流ハード・ロック」ってな具合のヘヴィなギター・チューンです。こっちはもっとアルバム全体のギッタンバッタンしたサウンドに寄り添った硬いテイストが特徴ですね。スティーヴン・タイラーさながらのシャウトもお見事。これまた全米1位。
……と、ここまででお分かりになると思うんですが、全米1位のシングル楽曲3連発なんですよ。さっき比較した『スリラー』のスウィートスポットですらそんなことしてません。(実はシングル『スリラー』は全米4位止まり。4位止まりっていうのも大概謎ですが)
そんでもって、アルバム開幕の2曲、『バッド』と『ザ・ウェイ・ユー〜』、こいつらも全米No.1シングル。そう、この『バッド』、全米1位のシングルを5曲も収録してるんです。ポップス全盛期の1980年代において、ですからね?当然、こんな記録他の誰にも成し遂げられていません。
さらにさらに、『ダーティー・ダイアナ』の後に控えるのが傑作『スムーズ・クリミナル』ですよ。こちらも全米1位……ではないんですけど、マイケル・ジャクソンのキャリア通じての中でも最高のキラー・チューンです。
アルバム前半で頻出したデジタル・ファンクの系統ではあるんですが、そのクオリティはこの楽曲が抜きん出てますね。エッジィなビートの中で、凄まじいスピード感とキレのヴォーカルを畳み掛けるのは圧巻です。MJお得意のメロディをなぞるベース・ラインもバッチリです。
これだけ名曲を詰め込んだムキムキのアルバムなんですが、特筆すべきはそのほとんどがMJ本人による作曲という点。全11曲のうち、『ジャスト・グッド・フレンズ』と『マン・イン・ザ・ミラー』を除いた9曲を作曲しています。ここに彼のソロ・アーティストとしての屹立が感じられますよね。ザ・ジャクソンズも脱退し、より野心的な表現への挑戦を名曲という形で表明しているようで。
そもそも前作の段階で『ビリー・ジーン』も『今夜はビート・イット』も『スタート・サムシング』も書いてるんですが、ソングライターとしてのマイケル・ジャクソンって本当に軽んじられてますよね。こんだけヒット量産できるコンポーザー、他に何人いるんでしょうか。
巨大化する「マイケル・ジャクソン」のスケール
ちょっと視点を変えて、次は本作の詩世界に踏み込んでみましょう。ここも『バッド』で大きく変化したポイントなんですよね。
再びの『マン・イン・ザ・ミラー』ですが、この楽曲のコーラスの歌詞、
I’m starting with the man in the mirror
I’m asking him to change his way
And no message could’ve been any clearer
If you wanna make the world a better place
take a look at yourself and then make a change
鏡に映る男から始めよう
鏡の中の男の生き方を変えさせるんだ
とてもハッキリしたメッセージだよ
もし君がこの世界をよりよいものにしたいなら
自分を見つめて、変化を起こすんだ
『マン・イン・ザ・ミラー』より引用 (抄訳:ピエール)
この力強さといったら。
ものすごく意地悪な言い方をすると、綺麗事じゃないですか。でもこれを主張して嘘にならない、その誠実さのレイヤーを持っているアーティスト、極めて少ないでしょうね。
さっきも触れた通り『マン・イン・ザ・ミラー』の作曲者はサイーダ・ギャレットなので、この歌詞をMJ自身で書いた訳ではありません。それでも、このメッセージが彼の信念と共鳴したのは事実でしょう。2度のワールド・ツアー、そして幻に終わった「THIS IS IT」でも、この楽曲はフィナーレに演奏されていますから。
もう1つ歌詞を引用するなら、表題曲の『バッド』も実はこういう性格があって。これは間奏を終えてのブリッジですね。
We can change the world tomorrow
This could be a better place
If you don’t like what I’m saying
then won’t you slap my face
僕たちには明日の世界を変えることができる
今日よりいい世界に
僕の言うことが気に食わないなら
顔を殴ってくれても構わないさ
『バッド』より引用 (抄訳:ピエール)
『バッド』のリリック全体は「本当にイカした(=“BAD”な)男は誰だ?」という、不敵な自信の表れではあるんです。ただ、その自信の中に「世界を変えられる」と歌うのが今作のMJのモードを物語っていると個人的に思っています。
で、こういう例からも分かるように、この『バッド』から「マイケル・ジャクソン」という存在のスケール感が爆発的に巨大化するんですよ。
考えてみれば、あの『スリラー』にだってこういう表情はないんです。あちらは言ってしまえば「ただの天才」。そこにスーパースター的、もっと言うと指導者的なキャラクターが追加されたのって、彼のキャリアでも極めて大事な転換なんですよね。
もっとも、それと呼応するように彼個人の苦悩を歌う楽曲も増えていくんですが。本作のラスト(リリース当初はCD盤のボーナス・トラック扱いで、LP盤には未収録)の『リーヴ・ミー・アローン』がその典型。
「放っておいてくれ、僕の周りを嗅ぎ回るのはやめてくれ」と強く訴えるこの曲がアルバムの最後に収録されるというのも、まるで90年代以降彼を襲う悪夢を暗示するかのようですけどね。
最先端で商業的が故に取り残された1枚
さて、ここまでベタ褒めしてきた『バッド』ですけど、とはいえ音楽評論の中で前2作ほどの地位を築いている訳ではないんですよ。でもって、それを過小評価だとは私も思っていません。
まず1つに、サウンドが「当時の最先端」を追いすぎた結果、普遍性に欠いてしまっている点。ここはどうしてもあるでしょうね。ありがちな80’sサウンドに偏りすぎている。抜かりなくシックなブラック・コンテンポラリーだった『オフ・ザ・ウォール』や、ポスト・ディスコの装いの元ロックやAORを吸収した唯一無二のポップ・サウンドを叩き出す『スリラー』との決定的な違いです。
前作『スリラー』が現象レベルの大ヒットを記録したことを受けて、この『バッド』に課された目標は「1億枚のセールス」だったらしいんです。いよいよ馬鹿げた数字ですけど、当時のMJはそういう立場にいるスターだったし、そのためには時代遅れになってはいけなかったんですね。それが時の試練を越えられなかったというのは皮肉な話なんですが。
80’sリバイバルはここ数年のトレンドなんですけど、そこで参照される方法論ってもっとソフィスティ・ポップ的なんです。同じシンセを使うでも、滑らかで温もりのある音遣いが現代では支持されている。その結果バタバタとした派手なシンセ・ビートというのが、ますます「コテコテの80‘sサウンド」として評価を落としてしまっているのも否定できないでしょうね。
それからさっき褒めちぎった楽曲の強度、これも「アルバム作品」としてはややマイナスなのかなと。どうしてもブツ切り感が拭えないというか、ベスト・アルバム的な構成になっています。『スリラー』もアルバム構築のスタイルでは共通してるんですけど、あのアルバムから感じる魔法のような流麗さが希薄なんですよね。
『スピード・デーモン』から『リベリアン・ガール』までをメドレー的にシームレスに繋ぐ展開に「アルバム作品」としての最低限の配慮はあるんですけど、それもかえって浮いちゃってるというか。
それに苦言を呈するようですが、『スピード・デーモン』や『ジャスト・グッド・フレンズ』なんかはどうしてもNo.1シングルてんこ盛りの本作のバランスを損なう「弱い」トラックになっているんですよね……なまじこの2曲が「時代の音」を鳴らしてしまっている分余計に。
ただ、「批評上の成功」と「大衆音楽としての完成度」って別物ですから。やっぱり『バッド』は名作だと思いますし、現代のリスナーも聴くべき部分は大いにあります。さっき「ベスト・アルバム的な構成」と指摘しましたけど、マイケル・ジャクソンのベストなんですから。悪い訳ないでしょ?
まとめ
とまあ、『バッド』に関してはこの辺りにしておきましょう。『オフ・ザ・ウォール』や『スリラー』と違って、この作品をここまで熱く論じたポストって日本語だとあんまり他になさそうです。やってやったぜ。
冒頭の繰り返しにはなるんですが、この辺からのMJをスルーしちゃってる人が多いのが本当に残念でね。この『バッド』に関しては、プリンスやその流れでのジャネット・ジャクソンを評価する過程で触れておいてほしい一枚でもありますし。
そういう小難しい話抜きにして、やっぱり全米No.1シングル×5のアルバムのポップネスってとんでもないですから。「時代を感じるなぁ」なんてちょっと穿った見方をしつつ、この『スリラー』の次なる一手を楽しんでもらえればと思います。
次回はいよいよ90年代に突入して、『デンジャラス』編ですね。年内にはいい加減終わらせた方がいいでしょうし、近いうちに投稿できればいいなぁと思っています。ただどうなるかは神のみぞ知るということで、それでは。
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