たいへんご無沙汰しております。ピエールでございます。
さて、遡ること10か月前。2023年を迎えるにあたって、私はこんな企画を立ち上げました。「月間オススメ新譜10選」です。このブログの過去ポストを振り返るとどうでしょう?この企画、4月編で止まっていますね……なんだこいつは。
という訳でですね、このしばらくブログ自体をサボりにサボっていた訳ですけど、輪をかけて新譜に対する言及を怠っていたことをここに懺悔いたします。といいますか、そもそも絶対数として新譜をまるで追いかけられていない。ましてその中から個人的なフェイバリットを探して、それらに対して考察を加え、それを文字に起こすなんてもう全然できていません。お恥ずかしい限りです。
突貫工事で1月あたり10枚のレコメンドをそれらしく書くことは、まあできなくはなかったと思います。でもそんな義務感から生じた表面的なレコメンドなんて、書きたくもなければ読んでほしくもない訳ですよ。選盤も結局大手レビュー・サイトの点数順で上から10枚みたいになりかねないですしね。
ただ、そんな風にうかうかしてる間にも梅雨は明け、真夏のピークが去ったと天気予報士がテレビで言い、もうすっかり秋。この体たらくだとあっという間に年の瀬ですよ。ということは、年間ベストを組まないといけない。そのための準備といいますか、私自身の感覚を2023年的にアップデートする作業が絶対に必要です。
ということで、ようやく今回の趣旨ですね。私が胡坐をかき続けたこの半年のリリースを、大まかにではありますけど振り返っていきたいと思います。サボっていた分取り上げるべき作品も多いので、何回かに分けて見ていきましょう。だいたい毎回5枚くらい、特に枠に決まりはないので思いつくままにって感じですけどね。ほら、毎月10枚みたいなノルマがあると一旦後れを取ると辛くなるじゃないですか。ただ不定期かつ軽めのボリューム感であれば、こちらも気楽に進行できるかなと。そういう訳でPart.1、参りましょうか。
“The Land Is Inhospitable And So We Are”/Mitski
まずはこの作品ですね。Mitskiで“The Land Is Inhospitable And So We Are”。まずこれだけ言いましょう、本当に素晴らしかった!
彼女ってキャリアの初期においては、ギター・ドリブンのインディー・ロックで支持を集めていたじゃないですか。そこに訪れた転機が、昨年の“Laurel Hell”。私も2022年の年間ベストで第16位に選出した名作です。これがなんと80’sソフィスティ・ポップに大胆に舵を切った、シンセサイザー主体のインディー・ポップに仕上がっていてね。「これはMitski、もっとすごいことになるな」という予感めいたものをこの時点で感じたのを覚えています。
そんな彼女がたった1年のブランクで出したニュー・アルバムとくれば、いくら新譜に対して怠けていようとも流石にリリース当日にチェックしましたよ。Xでもしっかり言及しました。その感想を一言で言うならば、「……どうした!?」、これに尽きます。
なんとなんと、本作で彼女が挑戦したのはルーツ志向のフォーク/アメリカーナ。インディー・ロックでもシンセ・ポップでもないんです。ストリングスやゴスペル調のコーラスをたっぷりと取り入れて、教会音楽のような厳粛さを獲得しています。そんな感じなので一聴すると非常に優雅なアコースティック・アルバムなんですけど、ここにしっかりとMitskiの「サッド・ガール」的な孤独の表現、ダークで鬱屈したオルタナティヴらしさが盛り込まれているのがもうとんでもない。
その両立って実のところLana Del Reyという絶対的女王がいるんですけど(今年リリースされた彼女の新譜もそういう方向性でしたから)、Mitskiってどうしたってアメリカ音楽の土壌においては「部外者」なんですよ。その点において決定的にLana Del Reyとは異なります。ただ、だからこそ俯瞰でアメリカーナを洞察できるし、それゆえに生まれる驚くべき解像度の高さが本作には宿っています。言うなれば、写実画のような美しさ。そこにロック的なダイナミズム、そして控えめながらふくよかなメロディ・センスが加えられてるんですから、もう圧巻ですね。
2021年のLittle Simz、2022年の宇多田ヒカルの時にも感じた「これを越える作品はもう今年は出ないかもしれない」という感動と僅かばかりの恐怖、それを今年に入ってから初めて味わうことができました。年間ベストの筆頭候補になることを、この時点で宣言してしまってもいいでしょうね。
“My Back Was A Bridge For You To Cross”/Anohni & The Johnsons
2023年って新進気鋭のアーティストというより、ある程度ディスコグラフィーがある中堅~ベテランが活躍している印象があるんですよ。これは洋楽/邦楽問わずです。その傾向は以降レコメンドする作品でも見えてくるかと思いますが、私が最も嬉しかったのは彼女のカム・バックですね。Anohniがバンド名義でリリースした“My Back Was A Bridge For You To Cross”。
マーキュリー・プライズにも輝いた2nd“I Am A Bird Now”、それから次作“The Crying Light”、この2枚が私は本当に好きでね。あのLou Reedが絶賛した豊かなバリトン・ヴォイスと陰惨なソング・ライティング、それを100%活かすためのオーガニックなサウンド・プロダクション、どれをとっても素晴らしいアルバムなんですけど、本作ではその作風に回帰しているのが嬉しいじゃないですか。なにしろ名義をAntonyからAnohniへ変え、女性として人生を再出発させた7年前の前作“Hopelessness”がOPNとHudson Mohawkeをプロデューサーに迎えたドローン音楽的な1枚でしたからね。
本作で彼女が重要なインスピレーションにしているのが、あの“What’s Going On”。言わずと知れた、Marvin Gayeによるニュー・ソウルの記念碑的名盤ですね。彼女の素晴らしく艶やかな低音域はブルー・アイド・ソウルからの影響を強く感じられますし、すべての作品で共通するスピリチュアルな高尚さも”What’s Going On”の神への祈りというコンセプトに符合するもの。つまり、Anohniと”What’s Going On”はそもそも相性がいいんです。そこから繰り出される音楽は、まさしく私が待ち望んだ、Anohniかくあるべしというオンリー・ワンの世界観に満たされたものでした。
サウンド面で面白いのが、多くの局面でギターをフィーチャーしている点でしょうか。普通、ソウル的に向かうのであればギターという楽器の役割はピアノやストリングスに取って代わられそうなものでしょ?そこを敢えてギターにすることで、しっかりロック・アルバム的にもなっているんですよ。ディレイが深くかけられたギターが耳を引く“Rest”なんて、1970年代前半のPink Floydをうっかり連想しちゃうミステリアスなドラマ性、彼女の歌声を食いかねないバンドとしてのカタルシスがありますから。こういうところに、本作があくまでバンド名義でリリースされている意義みたいなものを感じますね。
加えて過去作品との違いを指摘するならば、その世界観の変化です。ダークで厳か、沈痛という表情自体は共通しているんでしょうけど、本作はこれまでになく温もりを感じるんですよ。これまでを固く閉ざされた部屋とするならば、そこに小さくも確かに燃ゆるかがり火がもたらされたような、そんな印象です。サウンドと精神性、その両方において期待通りであり期待以上、そんな1枚でしたね。
“But Here We Are”/Foo Fighters
これは色んな意味で話題作でしたね。Foo Fightersの“But Here We Are”。なにしろ、オーバードーズで突然この世を去ったバンドのドラマーTaylor Hawkins、そして昨年8月に亡くなったDave Grohlの実母Virginia Grohl、この2人に捧げられたアルバムなんですから。「でも俺たちはここにいる」というアルバムのタイトル、これがまずもってGrohlの悲痛な覚悟を表明していますね。
ただ、私はこういう感傷を音楽を評価する際に短絡的に持ち出すのは好みではないんです。絶対に色眼鏡をかけてしまいますからね、公平じゃありません。ただ、それでも私がその話題を出したのは、残酷ではありますけど、このアルバムに2人の死はなくてはならないエッセンスだから。盟友と母の死という悲劇がDave Grohlのソング・ライティングに影響していない訳がありませんし、今回のそれに関しては悲しいかな極めてポジティヴな影響なんですよ。これまでにない気迫と熱量がアルバムのそこかしこに充満しています。
Foo FIghtersって言ってみれば「オルタナティヴ・スタジアム・ロック」みたいなバンドだと思っていて。古き良きスタジアム・ロックの迫力とキャッチ-さを、90’s以降、もっと言えばポスト・ニルヴァーナ的なエモーションを動力源にして表現している訳ですからね。それを誰あろうDave Grohlがやってのけているのは実はとんでもないことなんですけど、まあそれは一旦置いておいて。本作はその原動力、エモーションの部分がずば抜けています。もっと内向的で悲嘆に暮れる作品を発表したって誰からも文句は出ないはずなんですけど、Foo Fightersはそうしない。その悲しみすらもエンジンにして、Foo Fightersのロックを表現することに徹しています。そりゃ馬力が底上げされるに決まっているじゃないですか。
初期の覚醒した才能の迸りともまた違う、近作での模索と円熟を踏まえて、そして悲しみを起爆剤にしたGrohlの作曲が本当にどれも素晴らしいんですよ。ラウドなロックであれば冒頭の“Rescued”やタイトル・ナンバーがありますし、正統派パワー・ポップなら“Under You”、バラードならブリティッシュなムードもある“The Glass”とどれも白眉ですから。ただ、個人的には愛娘Violetとのデュエットでも話題になったシューゲイズ・ナンバー“Show Me How”からクロージングまでの展開がとりわけ感動的ですね。50分にも満たないサイズ感はFoo Fightersにとってはコンパクトとすら言えるんですけど、その重厚感においてはむしろキャリア・ハイ。
Hawkinsの訃報を知った時、私はただのドラマーの死以上の危機がバンドに迫っていると感じました。Kurt Cobainという唯一無二のバンドメイトの喪失を既に経験しているDave Grohlがまたしても信頼するメンバーを失ったことで、精神的にFoo Fightersは機能不全に陥りかねない、とね。ただ、そんな心配は杞憂に終わりました。「でも俺たちはここにいる」、なんと力強く、そして誇り高い名盤であることか。
“感覚は道標”/くるり
これはかなり直近のリリースですけど、早速取り上げておきましょう。そうするべき価値のある1枚でしたからね。くるりの通算14枚目となる“感覚は道標”です。
まず日本中のロック・リスナーを騒然とさせたのが本作に参加したラインナップ。なんと、結成当時のオリジナル・メンバー、岸田繁、佐藤征史、森信行が再集結しているんです。森のくるり参加は、なんと”THE WORLD IS MINE”以来実に21年ぶり。ただ、さっきも申し上げた通り、そういう表層的な情緒は音楽には関係ありません。本作が魅力的なのはただ単にオリジナル・メンバーが揃ったという事実ではなく、あのくるりが原点回帰を果たしシンプルな(シンプルに聴こえる)ロックを鳴らしているという点にこそあります。和製Radioheadかというくらいあっちこっちにいく彼らが、ですよ。
象徴的なのが“朝顔”というナンバー。もうイントロからして、まるっきり彼らの代表曲である“ばらの花”のセルフ・パロディじゃないですか。でも”朝顔”から感じられるのは、絶えることなく音楽性を拡張していた”ばらの花”の頃のぎらつきと焦燥感ではなく、「俺らもそろそろこういうことやってみっか」と言わんばかりの脱力と余裕です。この脱力感って作品全体に作用していて、ともすれば小難しい作風になりがちなくるりの作品群の中で最も聴きやすい1枚になっているんじゃないでしょうか。ほら、最初期の”さよならストレンジャー”や”図鑑”も、ギター・オルタナのひりつきが強くてある意味ではヘヴィなので。
本作リリースに際してくるりがnoteでセルフライナーノーツを無料公開してくれているんですけど(作品を理解するだけならそっち読んだ方が200倍くらい捗りますよ)、その中でキモとなる参照元に挙げられているのがThe Beatlesを筆頭にした60’sのUKロック、それから固有名としてはSmashing Pumpkinsが登場しますけど、90’sのオルタナティヴ・ロック。どっちも初期のくるりを聴いていれば明確に影響を感じ取れる文脈じゃないですか。そういう要素を、結成から30年あまりを経て、遠くへ至った彼らが今一度表現するとどうなるのか?そんな試みが本作なんですね。いわば、本作は「原点回帰」という実験、くるりが手を変え品を変えやってきた数ある挑戦の1つな訳です。
そうそう、冒頭で「シンプルな(シンプルに聴こえる)ロック」なんて表現をしましたけど、聴き味こそ柔らかいものの本作も相当チャレンジングではあるんですよね。ビートだけ取り出してもマージー・ビートにブギーにサンバに……結構好き勝手してます。こういう冒険心も出してくるのに、サウンド・プロダクションを意図的にもっさりさせてノスタルジーをひねり出す、というよりサウンドの質感だけならくるりのデビュー当時よりもっと古い時代を想起させるわざとらしさもにくいですね。いつも通りに一筋縄ではいかない、いつも通りに面白いアルバムを出してきやがりました。
“Ooh Rap I Ya”/George Clanton
さて、ここまではかなりベタなアーティストばかりを取り上げてきたので、最後にちょっとマニアックなところも見ておきましょう。と言っても、私が詳しくないだけでオタク的には必修レベルの人物な気はするんですが。ESPRIT空想という名義で10’sのヴェイパーウェイヴ・シーンに貢献したエレクトロ・アーティスト、George Clantonの“Ooh Rap I Ya”です。
オレンジと青が濃淡それぞれに複雑に入り混じるマーブル模様、そのアートワークからして如何にも取っつきにくい電子音楽かと身構えていましたけど、拍子抜けなほど聴きやすいんですよね。ただ、その聴きやすさというのが実に奥深い。サウンド自体は当然エレクトロなんですが、そのテクスチャが表現する時代性みたいなものがすごく多義的で。最初に連想できるのは80’s末期のセカンド・サマー・オブ・ラヴからマッドチェスターに接続していく、あの時代でしょうね。当然、その文脈の中で登場するトリップホップやシューゲイズの要素だって聴き取ることができます。
であるにもかかわらず、この作品からは強烈なノスタルジーがあるんです。それも絶対にマッドチェスターに対するものではない、別の領域に起因する何かが。それが何かと考えれば、80’sから90’sにかけてのシンセサイザー主体のポップスへの言及なのではないかと私は思ってます。これ、所謂「ソフィスティ・ポップ」とも微妙に違うニュアンスなんですよ。メロディに感じられるややオーバーなポップネスは、現代インディーに継承されたTears For FearsやThe Blue Nileのさらりとしたそれとは別種でしょ?“I Been Young”という楽曲にすごく顕著なポイントですね。ただ、そこのところがなかなか言語化できなかったんですけど、このレビューが極めて緻密に解析してくれています。
具体的にいくつか楽曲名を挙げられていますけど、これこそまさしく私が表現したかった音楽性なんですよ。今の感覚だとどうしても時代がかって聴こえる、しかし確かに上質なポップス。それを同じ時代にヒット・チャートとは無縁のところで発展していった、今様に表現すればインディー・シーンに紐づけて、しかも一緒くたにしてしまうというのはなかなかどうして離れ業じゃないでしょうか。音楽性のそれぞれをぶつ切りにして、しかし魅力を損なうことなくキメラ的に配合するセンスはやっぱりヴェイパーウェイヴ的なのかなとも思いますね。
ヴェイパーウェイヴ自体、そもそもネット上で面白半分に広がっていったサブカルチャーの権化みたいな存在ですから、こういう音楽性って一般的なポップス・ファンだったりロック・リスナーにはリーチしにくいと思うんですよ。ただ、このアルバムは手法こそややこしいものの、結果的に提示されているものは80’s~90’sにおけるポップス・フィールドとロック・フィールドの横断ですからね。聴きにくいはずがないじゃないですか。George Clantonの経歴だけ追いかけていては露にも思いませんけど、とてもフレンドリーで心地よい1枚です。
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