どうも。今回は映画に関するトピックです。
はい、7月1日に日本公開になりました、『エルヴィス』ですね。先週観てきましたよ。
タイトルからも分かる通り、「キング・オブ・ロックンロール」、エルヴィス・プレスリーの伝記映画です。いやもうホント、『ボヘミアン・ラプソディ』以降、アーティストの伝記映画連発され過ぎじゃないですか?
まあそれはトレンドとしていいんですけど、今回は音楽ファンの立場から、この作品に思ったことをつらつらと書いていこうと思います。それでは参りましょう。
ミュージシャン、エルヴィス・プレスリーの本質に迫った描写
まずは個人的に最も嬉しかったポイントから。この映画の中ではハッキリと、エルヴィス・プレスリーの音楽的な原点がゴスペルやブルースといった「黒人音楽」として描写されています。
作中ではプレスリーのアイドルとしてB.B.キングが出てきますし、それほどフォーカスはされなかったものの、リトル・リチャードやマヘリア・ジャクソンといった戦後ポピュラー音楽黎明期における重要なアフリカン・アメリカンも登場します。
ここ、ポピュラー音楽の歴史を重んじる立場として非常に嬉しいです。映画でも描かれていたんですが、彼が表舞台に現れた時に保守層から強烈なバッシングを受けたのは「白人が黒人のマネをしてる」という、極めて侮辱的なスタイルへの反発が根拠としてあった訳ですからね。
ただ、やっぱり戦後ポピュラー音楽の祖はアフリカン・アメリカンなんです。ブルースにしろR&Bにしろゴスペルにしろね。カントリーを無視する訳じゃないですけど、プレスリーを筆頭に、ビートルズもストーンズもクラプトンもそうですけど、なんとかしてアフリカン・アメリカンに近づこうとしてきたんですから。
そうした背景があるからこそ、本作のハイライトの1つ、1968年のカムバック・スペシャルで歌い上げた『明日への願い』が活きてくるんですよ。
アフリカン・アメリカンへの敬意からくる、キング牧師への真摯なアンサー・ソング。これを単に「プレスリーがプロテスト・ソングに乗っかった」と解釈させないだけの準備があったのは重要だったんじゃないかな。
加えて言うと、劇中で描かれたプレスリーの初ステージで、彼のアイコニックな下半身の動き、ここに観客の女性達が歓喜とも恐怖とも、欲情とも軽蔑とも取れる態度を示すんですね。これもすごく面白くて。
エルヴィス・プレスリーなんて、今では歴史上の偉人です。ただ1950年代当時、彼の存在はまったく新奇で、「いいか悪いか」の判断すらつかなかったはずなんですよ。それでも彼のセックス・シンボルとしての強烈さが、若者を中心に支持されていった。そういうストーリーでしょ?そこを分かりやすく描いてくれたのはよかったと思います。
プレスリーの「影の薄さ」と、ショービズのカラクリ
……さて、バッサリいくとこの映画でよかったのはこの辺りまでです。勿論、主演のオースティン・バトラーの名演は光ってますけどね。特にある程度年齢を重ねてからのプレスリーにはかなり迫っていて、ベガスでのステージなんてちょっとゾッとするくらいでした。
ただ、せっかく役者はいいのに、映画の中での「エルヴィス・プレスリー」がイマイチ映えていないというか……伝記映画なんですけど、トム・ハンクス演じる悪徳マネージャー、パーカー大佐が余りに目立っていて、どっちを軸にした作品なのかがボヤけてるんですよね。
ハッキリ言うと、この映画でのプレスリーって「とてつもないカリスマはあるけれど、周囲に翻弄される主体性のない人物」として描かれてしまっているんです。それはパーカー大佐の搾取に時に反発しつつも最後まで縁を切れなかった事実だけでなく、妻であるプリシラ・プレスリーとの関係にしてもそうですね。
そこが主人公としてイマイチ目立たない要因ではあってね。それに実際プレスリーの人生は何から何まで劇的だったとも言いにくい部分はあるんですけど……ただエルヴィス・プレスリー、あるいは1950年代のショービズを思えば納得できる部分もあって。
どういうことかというと、エルヴィス・プレスリーって「分業制」の時代のミュージシャンなんですよ。ザ・ビートルズによって自作自演が浸透する以前の表現者なので、彼が楽曲に責任を持つということはなく、あくまで「歌手」、あるいは「パフォーマー」として彼は音楽に携わる訳です。厳しい言い方をすれば、「エルヴィス・プレスリーというコンテンツ」はプレスリー個人に扱いきれる代物ではない。
『ボヘミアン・ラプソディ』にしろ、これはドキュメンタリーですけど『ゲット・バック』にしろ、そこにはアーティストとしてのエゴイスティックな姿勢がエッセンスとしてあったじゃないですか。ただ、プレスリーはキャリアの中でそれを発揮することはそう多くなかったし、プロモーターやマネジメントは彼のレガシーにとって事実極めて重要なんです。
だからパーカー大佐が準主人公ばりの存在感を見せていると私は解釈しましたね。この辺り、当時の時代背景を抑えておかないとちょっと理解しにくいのかなとは思います。
せっかくの音楽モノなのに劇伴が……
ここにも注文をつけさせていただきます。この映画、実際にプレスリーが歌うシーン以外での劇中音楽が惜しいんですよね。
プレスリーのオリジナルではなく、彼の楽曲に関連させた現代ポップスが使用されているんです。この辺ですね。
いや、別に音楽として悪いとは思いませんよ。ただ、せっかくエルヴィス・プレスリーという史上最も巨大なミュージシャンに言及するのであれば、彼のオリジナルで勝負してほしかったのが正直なところで。
まあ、理解はできるんです。何しろ50’sのロカビリーともなると、現代のオーディエンスにリーチできるかは不安でしょうしね。でも、そこは冒険してほしかった。だってエルヴィス・プレスリーは素晴らしい音楽家だという大前提がこの映画にはあるはずですから。
音楽に関連すると、フィナーレもちょっとねぇ……プレスリー最晩年のステージ、マイクを持つことすらままならない状態でピアノを弾きながらライチャス・ブラザーズの『アンチェインド・メロディ』を歌うシーンで幕引きなんですけどね。(ここは実際のプレスリーの映像↓が使われてます)
すごく個人的な欲なんですけど、どうせなら『マイ・ウェイ』がよかったんですよね。映画のフィナーレ、エルヴィス・プレスリーの生涯を総括する楽曲であれば、カバーとはいえ『マイ・ウェイ』の歌詞ってそのものズバリ!だと思いません?
さっきの話とも繋がるんですけど、ここで「I did it my way」と歌うだけで凄くプレスリーの「キング」らしさが際立ったと思います。まあ、この映画のシナリオの最後に持ってくると「ホントにそれMy way(自分の生き方)だったの?」っていう意地悪な疑問も沸く気はするんですが……
まとめ
とまあ、私の感想としてはこんな感じですかね。映画としてそもそもが長すぎた感もあるんですけど、伝記映画という「描くべきもの」が決まったスタイルでは仕方ないかなとも思いますし。
総括すると、「エルヴィス・プレスリーの伝記映画」としては個人的にはちょっと不満……というのが正直なところです。この映画を観て、果たしてエルヴィス・プレスリーの偉大さは伝わるのかと聞かれると、前提となる知識やある程度の穿った見方が求められる気がしちゃうので。
それに、どうしたって音楽的な濃度が物足りない以上、すごくシンプルに「プレスリーってカッコイイ!」となれる作品だったとも言い難いです。オースティン・バトラーの演技そのものは十分その水準を満たしているんですけどね……
ただ、逆に言えばエルヴィス・プレスリー像、彼の生涯を大まかにでも把握できていれば楽しめる部分は十分にあるのかなと。「こんなもの駄作だ!」と切って捨てる作品でもないので、いいか悪いか、実際に観て判断してもらうのが一番かなと思います。それでは今回はこんなところで。
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