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1970年代の洋楽史を徹底解説!§8. パンク〜ロックはロックによって崩壊した〜(後編)

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前回に引き続き1970年代洋楽史解説§8.、今回は後編です。前編はこちらから。

繰り返しにはなりますが、パンクというテーマはそれまでのロックの歩みを理解せねば十分に踏み込めない領域です。是非とも本シリーズのバックナンバーを参考にしていただければと思います。こちらからどうぞ。前シリーズの「1960年代洋楽史解説」もよろしければ。

さて、前編ではパンクは如何にして生まれたのか?そしてパンク誕生の地NYでの動きについてでした。

しかしながら、パンクがより強烈なプレゼンスを発揮し大衆に衝撃を与えたのはおおよそパンク成立から1年後、遠く大西洋を隔てたイギリスでのことでした。

今回はパンクが海を渡り、UKロックにおける最大のブレイクスルーとなったその契機から話を始めていきましょう。

マルコム・マクラーレンの策略

今回のトピックを扱う上で、何をおいても紹介せねばならない人物がいます。その男の名は、マルコム・マクラーレン。彼はあのヴィヴィアン・ウェストウッドの恋人で、2人でブティックを経営していました。

マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドの2ショット。

渡米時に彼が出会ったのが、前回パンクの祖として紹介したニューヨーク・ドールズ。マクラーレンは彼らの2ndのプロデュースを担当しますが、ほどなくしてバンドは解散します。しかし彼はこの段階で、パンクの持つ可能性を目の当たりにするのです。

前回申し上げた通り、NYパンクは商業的成功とは縁遠いムーヴメントでした。そこにマクラーレンは目をつけます。つまり、彼の祖国イギリスにこのスタイルは持ち込めるのではないかと。

彼は自身の経営するブティック、その名も「SEX 」に入り浸る若者をパンク・スタイルに改造しバンドを結成させます。そのブティックの名を冠したバンド名は、セックス・ピストルズパンク・カルチャー最大のアイコンの誕生です。

Sex Pistols – Anarchy In The UK
セックス・ピストルズのデビュー・シングル、『アナーキー・イン・ザ・UK』。そのタイトルが示すところは、「イギリスの無政府主義者」。その題の通り、イギリス政府をこき下ろす内容で、リリースするや否やたちまち紛糾されました。セックス・ピストルズの破天荒なキャリアの始まりです。

さて、ここで私が指摘せねばならないのが、ピストルズ誕生にはマクラーレンの打算的策謀が不可欠だったという点。換言すれば、ピストルズは表現の衝動や既存の体制への反発から生まれた自発的バンドではなかったというものです。

パンクとは何か?それは人々の手を離れてしまったロックに対するレジスタンスだったはずです。そこには何より、アーティストの表現への欲求がなければならない。しかしことピストルズに関して、それは欠落している要素でした。

バンドの2代目ベーシストであるシド・ヴィシャスの存在にそれは顕著。彼はベーシストとしては3流とも呼べない人物で、バンド加入まではベースをほとんど弾いたこともない素人でした。しかし、今日ヴィシャスはパンクの象徴のように崇拝されている。この事実です。

My Way (1993 Remastered Version)
シド・ヴィシャスによるシナトラの名曲『マイ・ウェイ』のカバー。マクラーレンによって渋々録音したという逸話も残っていますが、恋人のナンシー・スパンゲンとの破滅的末路と共に、彼の人生を象徴する楽曲として語り継がれています。

また、後述するようにピストルズは過激な反社会的パフォーマンスによって人々の注目を浴びますが、これもメンバーの自発的なアピールではなく、マクラーレンのプロモーション戦略です。

このように、ピストルズはパンクの意義に照らし合わせると、必ずしも本質的とは呼べない存在なのです。しかし、彼らがパンク・ムーヴメント最大の功労者であるのもまた事実。如何にしてセックス・ピストルズがパンクの頂点に上り詰めたのか?それをここからは見ていきましょう。

ロンドン・パンクの快進撃

セックス・ピストルズは登場するや否や、数多の伝説をロック史に刻んでいきます。

中でも最も有名なものが、エリザベス2世即位25周年祝典の同日にテムズ川で敢行されたゲリラ・ライヴでしょう。英国国歌と同名にして英国王室を際限なく侮辱するシングル『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を演奏し、逮捕される事態に。この一件に激怒した右翼がメンバーを襲撃する事件にも発展します。

Sex Pistols – God Save The Queen
英国国歌と同名異曲ながら、その歌い出しは「女王陛下万歳!だって?このファシストのお偉方どもめ あいつのせいでお前らはバカになってんだぜ、あいつはまるで水爆さ」。限りなく挑発的、限りなく不敬なこの曲を記念祝典の同日に演奏する不敵さに、人々はいっそう注目するようになります。

このプロモーションにより同シングルは注目を集め、UKチャートを駆け上がります。検閲が入りタイトルを黒塗りにされるという異例の事態すらも人々の関心に拍車をかけ、このシングルはタイトルを塗りつぶされたままNMEチャート首位を獲得。

そして満を持してリリースされた1stアルバムにして最終作、『勝手にしやがれ!!』は当然のようにチャート1位を記録します。

EMI (Remastered 2012)
『勝手にしやがれ!!』のラストに収められた『拝啓EMI殿』。そのタイトルの通り、テレビ出演時の舌禍事件で契約を解除された大手レーベルEMIに向けた痛烈な当てこすりです。ピストルズの攻撃対象は単に政治や王室ではなく、ありとあらゆる権威や既得権だったことがうかがえます。

このピストルズの快進撃を起爆剤に、ロンドン・パンクは一大ムーヴメントへと発展していくことになります。

例えばダムド。彼らはピストルズ登場以前にレコード・デビューしていたロンドン・パンク最古のバンドですが、政治色は薄く、より音楽的なサウンドを展開しています。それでいて音楽性は過激でハード、ラモーンズ由来のロンドン・パンクのフォーマットの形成に貢献しました。

Neat Neat Neat (2017 – Remaster)
ダムドの1st、その名も『地獄に堕ちた野郎ども』より2ndシングルの『ニート・ニート・ニート』。実に挑発的なジャケットからも連想される暴力性を持ち味としつつも、ロンドン・パンクの中では最も音楽的挑戦心に溢れたバンドの1つでもありました。

あるいはザ・クラッシュ。彼らもピストルズ以前にデビューしています。ピストルズと同じく政治的なアピールを持つバンドですが、過激で粗暴なピストルズとは異なりニヒルで冷笑的、斜に構えた英国的主張によって支持を獲得します。

The Clash – White Riot (Official Video)
1st『白い暴動』のタイトル・ナンバー。ザ・クラッシュもダムドと同様に音楽的挑戦に貪欲で、本作の時点でレゲエやロックンロールの導入を試みています。その創作意欲は、1970年代の末にある大傑作として結実することに。

また、ザ・ジャムもロンドン・パンクの中で重要です。1960年代に流行したモッズ・カルチャーを再興し、よりスタイリッシュでクールなパンクを表現しました。

The Jam – In The City
ザ・ジャムのデビュー・シングル『イン・ザ・シティ』です。モッズ・スーツに身を包み、ドクター・フィールグッドに代表されるパブ・ロックやR&Bからの影響を受けたクールなサウンドで他のロンドン・パンクとは一線を画した存在感を発揮しました。

そしてパンクは最早音楽としてだけでなく、ユース・カルチャーとして浸透します。とりわけファッションへの影響は絶大で、逆立てたヘアー・スタイルボロボロのシャツ、あるいは安全ピンを取り入れたスタイルはロンドンのみならず世界的な流行になっていきました。

パンク・ファッションの典型例。

こうしてパンクは、1970年代を象徴する文化に上り詰めたのです。その性質と規模の巨大さは1960年代のヒッピー・ムーヴメントにも共通していたと言えるでしょう。

何故ロンドン・パンクは成功したのか?

今まで見てきたロンドン・パンクの躍進、そこには当時のイギリスの社会・文化背景も密接に関連しています。ここからはその部分を解説していきましょう。

「英国病」の蔓延

1970年代のイギリス社会、それは「英国病」と呼ばれる深刻な社会停滞の時代でした。

産業保護政策の失敗により、国際競争力は低下。悪化する国際収支や手厚い社会保障政策のしっぺ返しとして税率は極めて高いものになっていました。

Taxman (Remastered 2009)
ザ・ビートルズの名曲『タックスマン』は、当時のイギリスの税制を象徴しています。「歩くのでしたら、足に税金をかけさせていただきます」という痛烈な皮肉が現実味を覚えるほどの状況に、当時のイギリスはあったのです。

それらがオイル・ショックやドル・ショックの煽りを受け一層深刻になり、単なる不況ではなく国民の労働意欲を減退させる状況に発展します。失業は社会問題になり、ストライキは恒常化。「不満の冬」と呼ばれる社会機能の低下を引き起こしました。

こうした状況下に、ロンドン・パンクは政治への不満を露わにしていました。それは紛れもなく、「英国病」に喘ぐ英国人の嘆きの代弁です。人々はパンク・アーティストを「時代の代弁者」として支持していた側面も大いにあるのです。

ロックへの不信感

こちらは§7.で解説しました。肥大化するロックへの不信感です。

この1970年代におけるロックの肥大化、その中心地はイギリスでした。ハード・ロックプログレッシヴ・ロックグラム・ロックも、どれもイギリスから誕生したサブ・ジャンルですから。

その肥大化に対し、ロンドン・パンク、とりわけピストルズは正々堂々中指を立てました。レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、ザ・ローリング・ストーンズ、クイーン……巨大な成功を収めたバンドはことごとく、パンクの攻撃対象となります。

ここにもマクラーレンの巧妙な戦略があったのですが、事実としてこの対立構造はロックに不信感を抱く当時のロンドンっ子を湧かせました。「旧世代の打倒」、新たなロックの到来、それをパンクは演出したのです。

人々は騙され、ロックは死んだ

ここまでに見てきたのはロンドン・パンク流行の過程です。それでは今からは、それ以降の歩みに関して。

先述の通り、パンクは「旧世代の打倒」を錦の御旗として台頭します。この「旧世代の打倒」の結実こそが、セックス・ピストルズの1st『勝手にしやがれ!!』のチャート首位獲得です。

これまでのロックを薙ぎ払い、パンクがイギリスの頂点を飾った。事実、1970年代前中期に隆盛を極めた「旧世代」は勢力を弱める結果にも繋がります。当然、依然として世界規模での支持は得ていたのですが。

しかしながら、この成果はパンクの大義名分の喪失をも意味します。目的を達成した後の構想を、マクラーレンは持ち合わせていませんでした。そしてそれは暴走するピストルズにとっても同様で、彼らは1978年に解散。アルバム・リリースから1年足らずの出来事です。

The Sex Pistols – Full Concert – 01/14/78 – Winterland (OFFICIAL)
アメリカはウィンターランドで開催された、セックス・ピストルズのラスト・ギグの模様。ロンドンの不良の集まりは不本意にも時代に祭り上げられ、ヴィシャスは重度のヘロイン中毒に陥り、メンバー間の不和は限界。避けようのない解散であり、それはパンクの終焉を意味していました。

あまりに巨大な影響とインパクトを生んだ一方で、ロンドンでのパンク・ムーヴメントは短命に終わります。その象徴こそが、ピストルズの解散でした。

ピストルズのラスト・ライヴの最後に、バンドの中心人物だったジョニー・ロットンはオーディエンスにこう投げかけます。

「騙された気分はどうだい?」

この言葉こそ、セックス・ピストルズ、あるいはロンドン・パンクの本質ではないでしょうか。当然、彼らは多くの人々を高揚させ、ロックの歴史において重要な功績を果たしています。しかしバンドそのものは、どこまでも虚構でしかなかった。そのことを最後に種明かししてみせたのです。

そして脱退表明後、ロットンはこうも語っています。

「ロックは死んだ」

ピストルズはとうとう、ロックを葬ることに成功しました。バンドの崩壊と共に。それも、人々を騙した末に、です。

ロックは死んだ、しかし同時にその次の担い手であったはずのパンクは自壊した。このことによって、1960年代から続くロックの栄華は終焉を迎えてしまいます。そう、この「ロックの死」という結末を辿るからこそ、パンクは1970年代洋楽史における最大重要事項なのです。

まとめ

  • ニューヨーク・ドールズに触発されたマルコム・マクラーレンが仕掛け人となり、セックス・ピストルズが登場。ロンドン・パンクの代表的存在になる。
  • ピストルズは瞬く間に人々の注目を浴び、デビュー・アルバム『勝手にしやがれ!!』でチャート首位を獲得。ダムド、ザ・クラッシュ、ザ・ジャムといったアーティストが登場し、ロンドン・パンクは全盛を迎える。
  • ロンドン・パンクの台頭はそれまでのロックの勢力を後退させる結果になった一方で、ムーヴメントそのものは短命に終わる。ピストルズ解散を象徴として、僅か1〜2年でムーヴメントは収束。

今回の内容を要約するとこの通り。

さて、いよいよパンクの収束まで話を進めることができました。1970年代における巨大な変化は、これをもって最後となります。いやはや長かった。

しかし、今回が最終回という訳ではありません。パンクの大爆発により焼け野原となったロック・シーンは、新たなる展開を求めて再び多様性と創作性を模索するように。「ロックは死んだ」と申し上げたものの、パンクによって殺害されたロックはその死をも糧に更なる発展を図るのです。

その発展が1980年代へと繋がるのですが、それは本シリーズの範疇にありません。しかし、その模索の模様を最後に解説して本シリーズを結んでおこうと思います。それでは足掛け2ヶ月にも及んだ本シリーズの最終回、「1970年代の終焉、あるいは1980年代の開幕」でお会いしましょう。

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