まだまだ終わりの見えない1970年代洋楽史解説。バックナンバーはこちらから。かなりの文量ですが、その分読み応え抜群ですのでお時間ある時にでも。「1960年代洋楽史解説」もあわせてどうぞ。
前回から本シリーズはブラック・ミュージックの動向を追いかけていますが、今回もテーマはブラック・ミュージック。より限定的に申し上げればファンクについてです。
ジャンルの成立自体は1960年代ですが、1970年代にこのジャンルは商業的成功を収め、また多くの分岐を見せていきます。その歩みは現代のポピュラー音楽においても極めて重要。是非本稿で理解を深めていただければと思います。
それではファンクの生みの親、「ミスター・ダイナマイト」の話から始めていきましょう。それでは参ります。
「ファンキー・プレジデント」、ジェームス・ブラウン
ファンクという音楽性を語る上で、何を置いてもこの人物について触れない訳にはいかないでしょう。ジェームス・ブラウンです。
先ほども少し触れましたが、ファンクというジャンルの成立は1960年代に遡ります。1960年代洋楽史解説§7.でも解説しましたが、今一度ファンクについて。
JBがファンクの創始者であることは否定の余地がありませんが、彼がデビューと共にファンクを生み出したということではありません。キャリア初期のJBは、非常に野生的でパワフルなソウル・シンガーでした。
転機となったのは1960年代中頃。彼はよりリズムを強調したサウンドを追究し、今日「史上初のファンク」と評される楽曲群を発表していきます。
前回扱ったモータウンのように、それまでのソウル/R&Bというのは豊かなメロディやゴスペル由来のふくよかな歌唱、甘いハーモニーを主体としていました。その中において、ファンクは「リズム」という成分によりフォーカスすることで新たな音楽の在り方を提示したのです。
また、1960年代のファンク黎明期においてJBと共に重要なアーティストがスライ&ザ・ファミリー・ストーン。サイケデリック・ムーヴメントの中から登場した彼らは、ピースフルなメッセージ性をファンクネスによって表現することで、時代と呼応するように成功を収めました。
大衆的とは言わないまでも、より人々に親しみやすい形態でファンクを発展させたこのグループの存在は、以降語ることになるファンク・シーンを語る上で当然重要です。
1970年代ファンクの歩み
ではいよいよ1970年代に照準を合わせていきましょう。この時代に活躍した3人の重要人物に沿って、1970年代ファンクの動向に迫っていきます。
完璧な肉体性を要求した、JBファンク最盛期
ここでもやはりJBから議論を開始しようと思います。それほどにファンクの世界で彼の存在は巨大ですし、彼を中心に考えるのは極めて妥当ですから。
JBの個性として、彼は「アルバム作品」というものにそれほど関心を示していませんでした。彼のキャリアは1950年代にまで遡りますから、以降発展したザ・ビートルズによる進歩的価値観にアジャストすることはなかったのです。
とはいえ、1970年代に彼が発表した作品は極めて重要です。JBの代表曲『セックス・マシーン』はファンク・クラシックとしてこれ以上ない出来栄えですし、『ファンキー・ドラマー』はヒップホップの世界で幾度となくサンプリングされた史上最高のビートとして今日でも高く評価されていますから。
こうしたシングルのリリースと並行して、彼の本領はステージで展開されます。1970年にそれまでのバック・バンドを解体し、選りすぐりのミュージシャンを招集して構成したバック・バンドは、JBが思い描くファンク・サウンドを完全無比に表現していきます。
そう、この完全無比という表現。これはファンキー・プレジデントへのおべんちゃらではなく、事実としてJBが求めたサウンド・ヴィジョンでした。
フロント・マンとして観客を熱狂させながら、彼は全ての演奏を注意深く聴いています。ミスを発見すれば、ライヴ終了後ミスをしたプレイヤーにペナルティとして罰金を科したというのは有名な話。
彼は完璧な支配によって、リズムの極意に挑戦していたのです。その成果として、この時期のJBのライヴ音源は尋常ならざる熱狂とファンクネスに満ち満ちているのですから。
スライ・ストーンによる人工的ファンク・ビート
次に見ていくのはスライ&ザ・ファミリー・ストーン。
1960年代にヒットを記録した彼らですが、狂騒の時代の終焉と共にそのセールスは振るわなくなっていきます。
ストーンの精神状態も荒廃し、バンドは存続すら危ぶまれる状態に。その中でレーベルとの契約を果たすため、彼はスタジオに1人で篭り制作を行います。
その結果生まれたのが、ファンク有数の傑作と名高い『暴動』。
本作の音楽的偉業としてしばしば語られるのが、ドラム・マシーンを導入した最初期の作品であるという点です。
これは彼が1人で作品を制作する上での苦肉の策ではありますが、その新奇性と独特のグルーヴ、そして多重録音によるDIY精神(「密室ファンク」とも呼称されるスタイル)はファンクの多様性に大きく貢献しました。
JBは辣腕ミュージシャンを完璧に支配し、どこまでもフィジカルなファンクネスを追究していました。一方で、スライ・ストーンは人工的なファンク・ビートを導入した。この対比は非常に興味深いものがあります。
総帥ジョージ・クリントンによるPファンク
1970年代ファンクに限って言えば、JBやS・ストーン以上に重要な人物とみなすことができるのがジョージ・クリントン。
ソングライターとしてあのモータウンに在籍していた経歴を持つ彼ですが、1970年代にはファンクの中心人物として縦横無尽の活躍を見せます。
彼が組織した2つのバンド、ファンカデリックとパーラメントは1970年代ファンクにおける重要存在です。
ファンカデリックはよりロック的でハードなアプローチを、パーラメントはファンクに従順で享楽的なムードを、と音楽性に相違こそあるものの、いずれもクリントンが総帥としてまとめていたバンドです。
この2つのバンドにおけるクリントンのサウンド・ヴィジョンは「Pファンク」と称され、1970年代ファンクの発展に大きく寄与します。スラップ・ベースの創始者ブーツィー・コリンズをはじめとしたスターも輩出し、一時代を築き上げました。
ファンクからディスコへ
JB、S・ストーン、G・クリントン。彼らの才能によってファンクは巨大な音楽ジャンルとなり、チャートを賑わせていきます。
そして1970年代も中盤に差し掛かった頃、そのファンクに影響を受けたあるジャンルが勃興します。
それがディスコ。
日本では「ジュリアナ東京」のイメージ、バブル時代の狂乱の象徴として時代がかった存在と認識されがちですが、1970年代の音楽シーンを俯瞰するにあたって重要なキーワードなのです。
ディスコの発展を語る上で、黒人、ゲイ、あるいは女性といった社会的弱者(この表現を使うことは甚だ遺憾ですが、当時の社会背景を汲んでのこととご理解いただければと思います)の存在を欠かすことはできません。
黒人のゲイ・コミュニティにとって、ディスコでファンクやソウルをBGMにして踊ることが彼らの慰めでした。そうした場にウーマンリヴ運動によって社会進出を果たした都市部の女性たちも足を運び、ディスコはアメリカで火がつきます。この熱気が西側諸国全体に伝播することで、ディスコは1970年代を代表するカルチャー・ムーヴメントになっていきます。
この盛り上がりを音楽シーンが見逃すはずがありません。以前こちらで紹介したようにロックですら産業としての性格をいっそう強める1970年代にあって、かつてから商業的なジャンルだったブラック・ミュージックはなおさらですから。
ディスコで人々を熱狂させ、躍らせる。そうした音楽が多く発表されるようになります。代表格として挙げられるのがファンクの流れを直接に汲んだアース・ウィンド&ファイアーやK&ザ・サンシャイン・バンドといったグループです。
またディスコの発展に女性が寄与したという事実を反映してか、ディスコ・シーンには女性スターの姿が目立ちます。「ディスコの女王」とまで称されたドナ・サマーを筆頭に、グロリア・ゲイナー、あるいはモータウンのスター、ダイアナ・ロスもディスコ・ムーヴメントの中で支持される存在でした。
そしてディスコ・ムーヴメントに反応したのは何もアフリカン・アメリカンだけではありません。白人アーティストも、目ざとくこの一大ブームに参入します。
その中でとりわけ言及せねばならないのが、ビー・ジーズと映画『サタデー・ナイト・フィーバー』。
ジョン・トラボルタが主演を務めたこの映画はディスコ・ムーヴメントの象徴として文化史上重要な意味を持ちますし、本作のサウンドトラックは飛ぶように売れました。
そのサウンドトラックに楽曲提供したのがビー・ジーズ。元々ソフト・ロックのバンドとして1960年代末から活動していましたが、ディスコを取り入れることで世界的ヒットを記録することに。
ディスコはファンクから出発したムーヴメントとはいえ、そこには親しみやすいメロディも追加されているのが特長です。それ故に、ビー・ジーズや、あるいはアバといったグループが参入する余地があったのでしょう。
最後にディスコ・ムーヴメントに呼応したロックに関しても少しだけ。
ディスコ・サウンドを取り入れたロック・アーティストとして挙げられるのが、ザ・ローリング・ストーンズやキッス、クイーンにデヴィッド・ボウイといった面々です。
この中でひときわ硬派なストーンズもその実サイケ・ブームには即座に反応する柔軟性を兼ねてから示していましたし、娯楽としてのロックに自覚的だったキッスやクイーンは言うまでもなく。グラムの貴公子だったボウイも時代に合わせた玉虫色の才能を持つ存在ですからこの反応は当然でしょう。
おそらく1960年代には、こうしたロックの外側の領域にこれほどまでにロックが反応することはなかったでしょう。これはひとえに、1970年代が同時多発的な変革を見せる「開花の季節」であったこと、そして「ロックの商業化」の影響を受けたものと分析できます。
「ディスコはファンクより出でてファンクより青し」
さて、ディスコ全盛におけるファンクに関してもここで見ておきましょう。
ディスコ発展の経緯の中で触れましたが、ディスコではファンクはヘビー・ローテーションされていた音楽性ですし、ディスコ・ヒットはファンクから地続きに生まれたサウンドです。
しかし、ディスコの発展と時を同じくして、ディスコのオリジナルであるファンクは衰退を見せることになります。ここまでに触れたファンクのレジェンドは軒並みセールスで不調に陥り、シーンからは後退してしまうのです。
シーンに対するカウンターとして台頭したジャンルによって旧来のサウンドが否定される、そうした現象はいくつか挙げられます。例えばクラシック・ロックとパンクの関係性、あるいはグラム・メタルとグランジといったように。
しかしこのファンクとディスコの関係性は特殊と評価していいでしょう。本来であればディスコの繁栄と共にますます評価されて然るべきです。
ここに1970年代特有の時代性、再三主張している「ポピュラー音楽の産業化」の影響を発見できると私は考えます。
ファンクは「原始的」と表現できる音楽性です。それは決して下等と同義ではありませんが、少なくとも大衆を意識した作為的でコマーシャルな音楽とは言えないものであるのは事実。
ですがディスコはむしろ真逆。如何に踊れるか、如何に人々を楽しませることができるか、それがディスコの至上命題でした。そのクレバーなサウンドは、紛れもなく1970年代における「ポピュラー音楽の商業化」の文脈に沿うものです。
ここで大衆の立場に立ちましょう。共にリズムを強調したジャンルという共通点を持ちながら、一方は大衆を意識していない、そしてもう一方は非常に大衆的。果たしてどちらを愛好するでしょうか?答えは明白です。
こうした構図によってファンクはその勢いを失った、少なくとも本シリーズではそのような仮説を提唱しておきます。恣意的な歴史解釈に陥ることの危険性は承知の上で、一定の史観に基づいて議論を進めるための措置とご理解ください。
まとめ
今回のまとめと参りましょう。
- 1960年代中盤に、ジェームス・ブラウンがリズムをより強調したファンクを創始。黎明期のファンク・アーティストにはJBの他にスライ&ザ・ファミリー・ストーンの活躍も。
- 1970年代に入るとJBはよりファンクのスタイルを確立させ、一方でスライ・ストーンはドラム・マシーンによる人工的なビートと密室ファンクの方法論を示す。
- ジョージ・クリントン率いるファンカデリック、パーラメントの「Pファンク」と総称されるグループが1970年代ファンクを席巻。
- ゲイ・カルチャーから発展したディスコが一大ムーヴメントに。ファンクの影響を受けたダンサブルなビートはアフリカン・アメリカンのみならず白人のポップス、あるいはロックにも大きな影響を与えた。
- 一方でファンクは同時期にシーンから後退。ブラック・ミュージックの世代交代が起こる。
かなり濃密な内容となっています。それこそJBのファンクネスが如く。
ファンク、とりわけJBはともすればザ・ビートルズ以上に重要な存在と言えるでしょう。それは1980年代に音楽シーンを支配した2人の天才、マイケル・ジャクソンとプリンスが共にルーツとしている点でもそうですし、ヒップホップの重要な参照元という点でも。
またディスコもダンス・ミュージックにおけるブレイクスルーとみなせますし、その影響は巡り巡って1980年代末のマッドチェスターにも繋がり得るものです。
こうした影響力を鑑みれば、今回触れたテーマはやはり大きな意義があると言ってよさそうです。
いわゆる「名盤」が少なく、それゆえに現在からファンクやディスコをディスコを探究することはロックに比べてやや困難ですが、本セクションで概要を掴んでいただければ、そのディグの一助にもなるかと思います。
次回でブラック・ミュージックに関しては一区切り、残るはジャズです。この難解極まる音楽が、1970年代という魔境にどのように適応していったのか?次回「フュージョン〜ジャズの帝王は電化ジャズの夢を見るか?〜」でお会いしましょう。
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