早いもので第3回となったこのシリーズ。バックナンバーは「1960年代洋楽解説特集」カテゴリからご覧ください。
§2.で見ていった内容をもって、ロックは完全に息を吹き返したと言っていいでしょう。では今回もロックの躍進を……といきたいのですが、ここからしばらくはロックとは距離を取ったお話になるかと思います。ただ、今回の内容は音楽史でも最も重要なポイントの1つ。ここを読み飛ばしてしまうと、今後の理解を大きく妨げかねません。
ということで、まずは1960年代のアメリカに渦巻くいくつかの社会問題のお話を。学校の授業のようで恐縮ですが、「歌は世につれ世は歌につれ」とも言いますからね。いい音楽もたくさん出てきますのでどうかご辛抱を。では参りましょうか。
激動のアメリカ〜1960年代アメリカにおける諸問題〜
1960年代のアメリカは、それはそれは激しい社会変革のさなかにありました。20年前まではWW2がありましたから国内で揉める余裕がなかった訳ですが、社会にとりあえずの平和が訪れると国内に山積された問題に人々は目を向けるようになりました。
このアメリカの社会問題というのが、この時代のアメリカ音楽における1つのテーマにもなっていくんですよね。なので堅苦しい話は承知の上で、少しだけこの部分について触れていきます。もっとも私は歴史の専門家でもなんでもないので、あくまで一般教養レベルの内容ですが。
公民権運動
§1. でも少し触れましたが、戦後のアメリカでは人種差別が未だ横行していました。1863年にエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を出してから100年経過してもなお、この巨大な問題はアメリカに横たわっていたんですね。
レストランやバス、果ては学校に至るまで、黒人と白人は隔離されている状況。特にアメリカ南部では「ジム・クロウ法」と通称される人種差別的な法律が存在し、人種差別は深刻な問題でした。
現代の倫理観からすれば異常でしかないこの社会の在り方を是正しようとした動きが「公民権運動」。非暴力的抵抗により、アフリカン・アメリカンが法的・社会的平等を勝ち取ろうとした運動のことです。マーティン・ルーサー・キング牧師らを筆頭に展開されたこの運動は、1964年の「公民権法」の制定で結果を残すまで続きました。
公民権運動は世界に現代的な自由への意識を与える契機ともなり、この後の女性解放運動にも繋がっていきます。暴力に頼らない社会変革としては最大の成果と影響を残した運動と言えるかもしれません。
ベトナム反戦運動
戦後の国際社会最大の問題といえば東西冷戦。アメリカを盟主とした資本主義諸国と、ソ連を中心にした共産圏での間に生まれた国際的な緊張関係のことですね。
この冷戦の特徴として、米ソ間での大規模な戦争状態にはならないものの、両陣営の対立が表面化した「代理戦争」が世界各地で勃発したという点が挙げられます。その代表例がベトナム戦争です。
南北に分裂したベトナムにおいて、南ベトナムを支援するアメリカと共産主義に共鳴した北ベトナムの間で起こったこのベトナム戦争は、「世界の警察官」であるアメリカの勝利に終わると誰もが確信していました。しかし実際にはこの戦争は泥沼化し、最終的にアメリカは撤退。北ベトナムの勝利によって終結しました。
このベトナム戦争の長期化に伴い、アメリカ国内ではこの戦争に反対する声が徐々に大きくなります。二度の世界大戦を経験してもなお続く戦争への嫌悪と疲弊、加えて公民権運動でも見られた市民の自由への意識の高揚がこの運動を支え、反戦運動としては史上最大の規模にまで発展しました。
「プロテスト・ソング」の登場
さて、まるで高校の世界史の授業のような内容をつらつらと書いてきましたが、ようやく音楽について触れていきましょう。
こうしたアメリカ国内の情勢は、当然音楽の世界にも波及します。社会運動によってではなく、音楽表現によって批判を展開する「プロテスト・ソング」(日本語で「抵抗する歌」の意)が様々に発表されるようになりました。
特に公民権運動というのはブラック・アメリカンにとって非常に大きな関心事ですから、ブラック・ミュージックの世界からはこの問題を扱った楽曲が生まれます。サム・クックは自身が受けた差別的待遇にインスピレーションを受け、ジェームス・ブラウンは「俺は黒人で、それが俺の誇りだ」と高らかに宣言します。
そして、何もプロテスト・ソングはブラック・アメリカンの専売特許ではありません。アメリカ白人層の民族音楽に端を発するフォークからも、プロテスト・ソングは発表されていきました。そもそもプロテスト・ソングは本来フォーク音楽から生まれた概念ですから、当然の流れですね。
戦前から存在したプロテスト・ソングのスタンダードは盛んにカバーされ、社会運動と結びついて発展します。このようにシリアスで批判的な姿勢を見せるフォークは、ポップスとは違った勢力圏を獲得していくんです。
そしてフォーク・シーンから、「時代の代弁者」として脚光を浴びる1人の青年が登場。彼の名はロバート・ジマーマン。いや、こう言った方が通りがいいでしょうね、ボブ・ディランです。
「フォークの貴公子」から「ユダ」になった男、ボブ・ディラン
ボブ・ディラン。彼もまた、ポピュラー音楽を理解する上で避けては通れない偉人です。包括的に1960年代の音楽を見ていくこのシリーズで特定のアーティストに文字数を割きすぎるのは本意ではありませんが、それでも1960年代のディランの歩みはしっかりと追わねばならない部分です。
フォークの貴公子
1つ前のチャプターでも触れた通り、フォークの世界ではプロテスト・ソングが隆盛を見せていました。その中デビューしたディランは、2ndアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』で一躍フォーク界期待の新星として注目されます。
かのワシントン行進にも参加するほど社会派アーティストとして期待を一身に負うようになったディランですが、彼はそうした状況に不満を募らせていきます。面白いことに、優れたプロテスト・ソングを多数発表しておきながら、ディランはこうした社会運動にそれほど関心を寄せていなかったんですね。
言ってしまえば、望まぬ形で彼はもてはやされてしまった訳です。歌詞の内容は不本意な意味に解釈され、運動の象徴として利用される。『戦争の親玉』なんて曲を書いておいて社会派と思われたくないというのはなんともちぐはぐですが、ボブ・ディランとはそもそもがちぐはぐな人ですから。
そんな時彼が出会ったのが、イギリスからやってきたロック・ミュージック。彼は「フォークの貴公子」からの脱却を望み、ロックの世界に接近していきます。
ディランとザ・ビートルズの邂逅
1964年8月28日、ホテルの一室で歴史的会合が開かれます。アメリカ制覇を成し遂げ、世界的スターになったザ・ビートルズと、フォークの貴公子ボブ・ディランが邂逅を果たしたのです。
この時の両者の境遇は、奇妙なことに似ています。「ビートルマニア」と呼ばれる熱狂的ファンの狂騒、そして繰り返されるコンサートに辟易していたザ・ビートルズと、不本意な「時代の代弁者」の肩書きを邪魔に感じていたディラン。彼らが出会うのは必然だったのかもしれません。
その会合で、ディランはザ・ビートルズにこう言い放ちます。
「君たちの音楽には主張がない。」
間違いなく当代最高のソング・ライターであるザ・ビートルズにここまで痛烈な物言いをしてみせるのはなんともディランらしいですが、実際彼の指摘は正しいのです。フォークやブラック・ミュージックが社会的な振る舞いを見せる中、ロックやポップスの歌詞というのはほとんどがラヴ・ソングで、歌詞表現において遅れを取っているのは紛れもない事実でしたから。
このディランの手厳しい意見に誰よりも感化されたのがリーダーのジョン・レノン。この会合の後、彼はディランに大いに傾倒し、フォーク的アプローチを取り入れます。同年末に発表された『ビートルズ・フォー・セール』での彼の楽曲はフォーキーな色彩を感じさせるものが多く収録されていますからね。
一方、ディランもザ・ビートルズを筆頭としたロックのサウンドに感化されていきます。ロックが持つある種の通俗さ、そしてパワフルなエレキ・サウンド、こうしたものにディランは関心を示し、作品に取り入れていくのです。
ディランのエレキ化、そして「ユダ」と呼ばれた日
1965年、ディランは『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』でロック・サウンドを導入。ついで『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』とロック的作品を次々に発表します。
『追憶のハイウェイ61』収録のシングル『ライク・ア・ローリング・ストーン』は実に象徴的。それまでプロテスト・ソングをアコースティック・ギターとハーモニカだけで歌ってきたディランが、エレキ・オルガンの強烈なサウンドを伴い、1人の女性の没落を歌うという世俗的な歌詞を展開したのです。
先に「フォークはポップスとは違う勢力圏を獲得した」という話を出しましたが、これをもう少し乱暴に表現するならば、フォークのリスナーはロックを低俗な音楽と見なしていたのです。くだらない歌詞にわかりやすいメロディを乗せた音楽など、聴くに値しないと。
そうした状況で、「フォークの貴公子」の突然のロック化。それまでのファンからの反発は必至です。非常に有名なエピソードですが、ディランはコンサート中に観客から「お前はユダ(裏切り者)だ!」と揶揄されてしまいます。それに対し、ディランは「お前らなんか信じない、嘘つきめ」と切り返し『ライク・ア・ローリング・ストーン』を熱唱するんですね。
このフォークとロックの結びつきは「フォーク・ロック」と呼ばれます。このフォーク・ロックが如何に重要だったのか、それは次のチャプターで見ていきましょう。
ポピュラー音楽と文学性が結びついた瞬間
そろそろディラン個人の話から離れましょうか。ここからは、今まで見てきたディランの動向はどういう意味があるのか、この部分について。
一言で言ってしまえば、ディランの功績は「それまで世俗的だったロック/ポップスの歌詞世界に文学性をもたらした」点にあります。
ラヴ・ソングばかりを取り扱ってきたロックにディランが参入する、この意義は本当に大きいです。なにせノーベル文学賞を受賞するほど、彼の歌詞表現は高尚な訳ですからね。彼の歌詞表現はザ・ビートルズのみならずロック全体に衝撃を与え、恋愛から離れた様々なテーマの詩世界がロックに生まれるようになりました。
これって、もっと言えば「ロックの芸術化」の最初の一歩だと思うんですよ。この「ロックの芸術化」に関しては次回たっぷりと見ていくテーマなのでここでは語りませんが、ロックに娯楽以外の側面が生まれたというのは重要な変化です。
そしてもう一つ、ディランのロック化、要するにフォーク・ロックというのは「ロックと他ジャンルの融合」の最初の一例でもあるんです。これもロックの可能性の拡大において重要な出来事ですね。
それまでのポピュラー音楽は、それこそフォーク・リスナーのロックへの軽視からも分かる通りジャンル毎に棲み分けがなされていました。あくまでロックはロックだし、フォークはフォークでしかなかった。
その垣根をディランが率先して破り、またロックの側からもフォークへの接近が見られたというのは非常に大きなムーヴメントです。先に触れたジョン・レノンのフォークへの傾倒も勿論ですし、ザ・バーズがディランの『ミスター・タンブリン・マン』をカバーした例も有名ですね。
この「ロックと他ジャンルの融合」も、今後様々な形でシーンに登場していきます。その部分でも、ディラン、というよりこのフォーク・ロックのスタイルの確立はエポックメイキングな出来事ですね。
まとめ
今回のまとめです。
- 社会問題を取り扱ったプロテスト・ソングが盛り上がりを見せ、特にフォークが人気を博する。
- フォークの世界から登場したボブ・ディランはロックに接近し、フォーク・ロックを確立。
- この一連の出来事により、ロックに文学性や他ジャンルとの接続といった新たな可能性が生まれた。
まとめてみると結構シンプルな流れに見えますが、何度も言うようにこの動きがなければこの後のロックのめざましい発展はなかったと言っても過言ではありません。それくらい重要な瞬間だということだけは覚えて帰ってください。よろしくお願いします。
さあ、次回はこれまで何度か言及した「ロックの芸術化」に関して。次回も次回とてザ・ビートルズを中心に、ポピュラー音楽の歴史は大きく動くことになります。それでは、次回「ロックが芸術になった日」でお会いしましょう。
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