先日投稿したこちらの記事、皆様読んでくださいましたでしょうか。
我ながら渾身の力作です。もうしばらくオール・タイムのランキングはいいかな……洋楽名盤の方もいつかリライトしたいんですけど、まあいつかということで。
で、今回は昨日の記事の番外編といいますか編集後記といいますか。あのランキング作成に至るまでの私の中での価値観だったり、レギュレーションの解説です。あとは自己分析もかな。
こっちを読んでからランキング本編見てもらうと、また違った見え方がするような感じにしていきたいです。それではゆるりと参りましょう。
「オリジナル・アルバム」以外も選出対象
まずはレギュレーションについて何点か。今回のリストにはライブ盤やベスト盤といった、「オリジナル・アルバム」以外のフォーマットのものもチョイスしています。これ、読者の皆さんは割とどうでもいいと思われるかもしれませんが、私にとってはすごく大きな決断でした。
アルバムという、それ自体で完結した作品を生む。その意識があるかないかは、評価する上で重たいものだと私は思っています。ベストにしろライヴ盤にしろ、作品の制作意図としてそういうものではないですから、いい悪いは別として「名盤選」みたいな企画では扱わないというのが私の中での鉄則でね。これは以前に作った洋楽名盤選でも徹底しています。
ただ、邦楽でこれやっちゃうととんでもない取りこぼしをいくつかしてしまうんです。例えば村八分やラリーズのライヴ盤であったり、BUDDHA BRANDの『病める無限のブッダの世界』、それからwowakaの『アンハッピーリフレイン』辺りですね。この辺は特定のシーンを語る上でマストなアーティストで、作品のクオリティも極めて高い、にもかかわらず「オリジナル・アルバム」は存在しないんです。
最初は、もう潔く全部選外とするつもりでした。ただ、どうしても『アンハッピーリフレイン』は必要なピースだったんですよ。ボカロが今日のJ-Popに与えた影響の大きさはリストに反映させたかったんですが、ボカロの音楽的なキャラクターとしてはハチやDECO*27で代替するのもしっくりこない。かと言ってwowakaを特例枠としてしまうと、アーティストとしてのネーム・バリューとしてちょっと公平性に欠いてしまう。
ならばここはいっそ、ということでそうした作品をまるっと対象に加えました。結果としてその方がよかったと納得はしてます。やっぱり村八分やラリーズは邦楽の先駆性という意味で紹介するに越したことはないし、あとRCサクセションを無理なく『RHAPSODY』にできましたしね。『シングル・マン』もいいんですけど、バンドやキヨシローのキャラクターにビシッとハマるのはあっちなので。
原則「1アーティスト1枚」と例外の規定
で、今名前が挙がったRCサクセションがちょうどいい例なんですが。彼らって名盤選では結構な頻度で複数枚ランク・インするバンドですよね。『RHAPSODY』か『シングル・マン』のいずれかは確定で、全然2枚とも入ってくることもあるし、なんならさらに『楽しい夕に』も登場したりね。
この1アーティストからの複数枚選出、今回は「よほどのことがないとナシ」にしてます。原則として1アーティスト(名義)1枚というレギュレーションですね。洋楽だとどうしたってビートルズやディランには複数枚割かないといけないし、いかんせん対象が広すぎてある程度ポイントを絞らないと序列がとっ散らかってしまう脆さが生まれてしまうんですが。
ただ邦楽であれば、もちろん候補は山ほどあれど「日本ポピュラー音楽の歩み」という洋楽に比べれば格段に狭い世界の議論ですから。であれば、アーティスト数はなるだけ多くして、包括的に切り込んだ方が面白いものになるだろうという考えでこういったルールを設定しました。
もっとも、そう言うからには例外があって。細野晴臣、荒井由実、YMO、フリッパーズ・ギター、スピッツ、Cornelius、宇多田ヒカルを複数枚ランク・インさせています。ちなみに名義を無視して作品に参加したかどうかで判断すると細野さんがぶっちぎってますね。流石は日本ポピュラー音楽界最大の偉人。
その例外になるかどうかの基準というのが、まず1つに邦楽史上における存在感。「格」というと陳腐になりますが、この人たちは特別扱いしてもいいよねという納得が得られそうな名前かどうか。そして同時に、「1枚じゃそのアーティストの意義を拾いきれない」ものであれば例外対象、そんな感じです。
前者に関しては、例外の顔触れ見てもらえればわかりやすいですよね。そのうえで、例えばYMOを『ソリッド〜』だけにしちゃうと今日的なエレクトロ・ミュージックと紐付けにくいし、かといって『BGM』だけというのはテクノ・ポップのムーヴメント軽視に繋がってしまう。どちらも選ぶことで、初めてそのアーティストを名盤選の中で評価できるというパターンが多くなってます。
ただ、ユーミンとCorneliusはちょっとグレーですよね……もちろん音楽性に差異のある2枚ですけど、そこから伝わるアーティストの性質や偉大さはある程度共通しちゃってますから。これに関しては正直ちょっとなし崩し的と言いますか、ユーミンの場合だと、『ひこうき雲』か『MISSLIM』のどちらかしか邦楽名盤選に入ってないのすごい違和感ありませんか?
そこの納得感を重視して、この2人は複数枚としました。アーティストとしてのパワーも間違いなくトップ・クラスだし、そこまでバランスを破壊はしないだろうという言い訳は立つと思います。そうそう、ナンバーガールやフィッシュマンズ、ゆらゆら帝国にくるりなんかも複数枚選べればなぁとは思っていたんですがそこはシビアに、「邦楽」という大きな括りで見ると1枚でも拾い切れるかなぁという判断です。後で触れますけどオルタナ偏重も避けたかったので。
ベースとしての「はっぴいえんど中心史観」肯定
まずオール・タイムの名盤選をするにあたって、基準となる邦楽通史の意識は絶対に必要だと思ったんですよね。批評としての強度というか、「それってあなたの感想ですよね?」と言われた時に最低限の反論ができるような下地を用意するために。
で、今回のリストに関しては「はっぴいえんど中心史観」をやはり採用すべきだろうと。はっぴいえんどを、あるいは『風街ろまん』を起点に、日本ポピュラー音楽の歴史を語っていこうとする価値観です。私の考えとして、こういう名盤ランキングってまず「納得感」を大事にしたいんですよね。この100枚で邦楽の体系的なリスニング体験を始めても問題ないような、そういう選出を重んじたい。
となると、やっぱり『風街ろまん』は偉大なんだよって話はしないといけないし、そこから細野晴臣のソロ・キャリアからYMOへの流れ、あるいはティン・パン・アレーとその人脈によるニュー・ミュージックの作品群、そして大滝詠一率いるナイアガラ一門によるシティ・ポップの展開、この辺りはマストだと思います。
それに大滝や山下達郎がやっていた堂々とした洋楽のリファレンス、それを90’sの時代感覚でリバイバルしたのが「渋谷系」だと思うんですよ。表面的な音楽性というより、アティチュードとしての継承。そう考えるとフリッパーズ・ギターと2人のソロ・キャリアも高く評価したいんですね。小山田圭吾はYMOにも参加して細野人脈にも加わっているし、オザケンが『LIFE』でやったことって『ロンバケ』のソウル・バージョンだと思っているので。
そして、その「渋谷系」が巡り巡ってはっぴいえんどに帰結したサニーデイ・サービス。あるいは細野晴臣の思想的な弟子とも言える星野源の登場。こういう風に、ポスト「渋谷系」における「はっぴいえんど中心史観」の重要人物も本リストでは重きを置いています。洋楽における「ロック至上主義」だとニルヴァーナ以降がまるで不毛地帯みたいな扱いになってしまうんですが、「はっぴいえんど中心史観」は現代まで一般の線が引けるのがやはり強みですからね。
「はっぴいえんど中心史観」の修正
そして、これは今し方語ったことと矛盾するようですけど、同時に「はっぴいえんど中心史観」にまるっきり依存するようなものにはしたくないという思いもあります。なので最低限、プレ『風街ろまん』の日本語ロックとしてジャックスは絶対に必要、かつ高順位です。
あとは今回はジュリーと聖子ちゃんで歌謡界からも最低限チョイスしてますが、いたずらにフォーク/ニュー・ミュージックに偏重してしまうのも避けたい。聖子ちゃんはニュー・ミュージック的にも評価できちゃうんですけど、あくまで私の中では彼女のアイドル性も込みで「歌謡の美味しいところ」としての選出が大きいです。
それからチューリップみたいな「はっぴいえんど中心史観」の外側で活動し、かつポップスとしてのリアルタイムな実績に関してははっぴいえんど人脈以上の存在もちゃんと言及すべきで。これは後述する「ポップス重視」とも重なる意識ではあるんですけどね。
なのでそういう意図で選んだ作品に関しては、レビューでちゃんとアンチ「はっぴいえんど中心史観」としてのコメントを入れるようにしてます。アンチしながら結局上位ははっぴいえんど人脈じゃねえか!って解釈されてしまうかもしれない懸念はありつつ、ベースとしては採用したけどおんぶにだっこのつもりもありませんという批判精神の証拠として。
ポップス重視
で、これは選盤や順位づけのもっと具体的な基準なんですけど。基本的にはベタなもの、あまり主観や尖りを反映させない模範的なものに(そのコンセンサスは批評としての妥当性を担保するものだと思うので)という意識のもとやってはいます。
そしてその模範的な批評というのは、シーンへの影響であったり革新性であったり、あるいはそこから生ずる音楽としての普遍性や賞味期限の長さだったりを根拠にするんですが、その辺を踏まえて今回一番大事にしたのはここです。ポップなものかどうか。
この手のリストで苦手なのが、大衆の知名度が低いマニアックなものがすごく優位に立ちがちな性質なんですよ。もちろんそういう独創性の高さは音楽作品を語る上で重要だし、私のリストでもそういう毛色の作品をたくさん登場させています。
ただこと「邦楽」に関してであれば、もっと大衆的なもの、ポップなものにオープンになっていいと思うんですよね。もちろんただ売れただけの凡庸なポップスを誉めそやすつもりも、日本人の批評嫌いにおもねるつもりもないですが、大衆文化としての側面が強く、なんでもかんでも歌謡だったりJ-Popだったりに組み込んじゃうガラパゴス的な節操のなさを、私は肯定的に捉えたい。
だから『名前をつけてやる』より『ハチミツ』だし、『BGM』より『ソリッド〜』。この辺、私の観測する限りでのリスナーの肌感覚とは逆行している自覚はありますよ。でも、音楽性の高さを保証した上でなら、それをJ-Popにしてしまえる日本人との相性のよさみたいな部分は「邦楽」としては強みだと思うんです。
アーティスト単位で見ても、高順位の方には宇多田ヒカルや星野源、下っていけばチャゲアスや藤井風やaiko、ちょっとニュアンスはズレますが中島みゆき、あとはさっきも触れたアンチ「はっぴいえんど中心史観」の作品ですね、この辺はポップス重視を表明するためにオーソドックスな批評より高い位置にしています。というより、こういう面々が軽んじられている現状がおかしいと思うんですよ。
それと、ロックに関してもそういう大衆性はかなり重たく見たつもりです。日本って世界的にも珍しい、21世紀以降もロックが聴かれ続けてる国じゃないですか。その国民性は邦楽名盤ランキングに是非とも反映させたいところです。
「人気バンド」というところであれば、キャロルに始まり、バンド・ブームの頃のTHE BLUE HEARTSに BOØWY、そして90’sならば「V系」であったりミッシェルとブランキーの両雄、「ロキノン系」に入ってからのバンプとアジカン。こういう文脈ですよね。
この中でもミッシェルとブランキー、そしてTHE BLUE HEARTSは現行批評でも十分支持されてます。あとはキャロルも「日本語ロック論争」の流れで評価されてたりね。ただ、そこにBOØWYとバンプは入っていいと思うんですよね……少なくとも偉大さという観点で、ですけど。
「洋楽に対する邦楽」という意識
で、ポップかどうかを最大の基準としたうえで、このランキングで精神性として重んじたのが「洋楽への意識と、そこから表れる邦楽としての意識」というもので。ちょっと抽象的すぎると思うので突っ込んで説明しますね。
少なくとも戦後から20世紀の終わりまで、ポピュラー音楽においてそのフロンティアには常にアメリカ、あるいはイギリスが立ち続けていました。これは邦楽が英米音楽に比べて劣っているという意味ではなく、構造として日本ポピュラー音楽は海外の動向を踏まえて二次的に発展してきた歴史が事実としてありますから。
そうした洋楽への追従をしながらも、その中から日本でその音楽を鳴らす意味、それは土着性の獲得と言ってもいいと思うんですけど、そうした部分を模索することが邦楽の至上命題だと私は考えています。
それはGSが商業音楽として消費されながらもなんとか食らいつこうとしたものでもあったし、それを(ある側面において)結実させた作品として『風街ろまん』は存在しているし、その意識から細野晴臣は「イエロー・マジック」を提唱しました。これはあくまで黎明期の一例であって、色んなアーティストが歴史の中で試み続けたものだと思うんですけどね。
これは「海外で評価されるか」とはまったく別の話です。どれだけRYMが『LONG SEASON』や『男たちの別れ』を絶賛しようと、日本におけるフィッシュマンズの最高傑作は断じて『空中キャンプ』。日本にとって、日本人にとってどうであるかという意識は保ちたい。
如何にポピュラー音楽がボーダレスな時代を迎えようと、何も邦楽が生真面目に世界中で聴かれる努力をすべきとは思っていません。ガラパゴス化できる土壌を誇るべきだとすら私は思っています。当然そのガラパゴス化は興味深いものであるべきだし、そうした独自性を獲得するためには逆説的に外に視線を向ける必要はあるんですけどね。
この命題の最大の成果物として私は『ロンバケ』を第1位としていますし、『ヘッド博士』をその後に続けさせました。近作であれば『Pop Virus』や『BADモード』、あとは『球体』にもそうした性質が強い。作品としての知名度や妥当性にやや欠けるので順位としては控えめにしましたけど『電撃的東京』での歌謡とパンクの折衷、あるいは『人間失格』のブリティッシュ・ロックと青森の土着性の融合、この辺も支持したいです。
これ、しばらく前に話題になった「日本人の洋楽離れ」に対する私なりの回答でもあります。リスナー側の意識をどうこうというのは難しくとも、少なくとも表現者はそうした求道的な態度を崩してはならないと考えているので。もちろんリスナーのリテラシーなくして成り立たないとは思うんですけど、その教化もアーティストの責務と言いますか。
ランキングの自己分析
ここからは、以上のレギュレーションや価値観を踏まえての自己分析を軽くしていこうかと。
年代別の分布
まずは年代別での分布です。こんな感じですね。
60年代……1枚
70年代……28枚
80年代……14枚
90年代……31枚
00年代……16枚
10年代……8枚
20年代……2枚
一番多いのが90年代、ついで70年代という結果ですけど、これはまあ妥当かな。ちょっと90年代のロック関連が多すぎる気もしないではないんですけど、国内シーンが一番豊かだったのはあの時代だと思うし、「このバンド入れたからこっちはなしでいいや」っていう代替案的な手心も加えにくいラインナップになっているので。
自分でも意外だったのは80年代が00年代より少ないってところでしょうか。ただ、80年代って70年代的なアーティストと90年代的なアーティストが入り交じるエアポケット的な時代でもあると思っているので、それぞれを代表するものをとなるとどちらかに分散してしまってこういう数字になるのかもしれません。『玉姫様』とかREBECCAの4thとか、最後まで悩んだ作品も多いんですけどね。
で、00年代は正直J-Pop的には停滞期だと思うんですけど、代わりにロックがすごく面白い時代で。それはさっきも書いた90年代の充実がより細分化してマスにまで浸透した結果なんですけど、そういう文化的なバンドがある程度J-Pop的に受け入れられるってシーンの変遷としてすごく価値のあるものだと思ってます。ゆらゆら帝国みたいに「なんでそうなった」みたいなバンドはいれど笑
あとは60年代からジャックスのみというのは、見る人によってはかなり嫌悪感あるかもしれません。「GS無視なんてあり得ない!」とね。ただ、こと「名盤」という切り口だとGSの有名作品にアルバムとしての意識だったり作品の通奏低音ってどうしても感じにくくて。
それに洋楽のオール・タイムものでも、プレスリー筆頭にR&Rの重鎮やモータウン、それからフィル・スペクター系統って入ってきにくいじゃないですか。でもそれは彼らが偉大じゃなかったと言いたいのではなくて、「名盤選」というコンセプトでは無理に扱わなくてもいいでしょという意識だと思うんです。なので今回、GSはあえて選外としました。ただ、これは別のところでしっかりフォローしたい文脈ではあります。
あともう一点、2020年代からの2作品について。私はこの手のオール・タイムものに関して、あまりに新しい作品はそれだけで不利だと考えています。だって、「偉大さ」を論じる上で重要な「後続への影響」がそもそも現時点で存在し得ない訳ですから。たとえランキングが保守的な傾向になろうと、新しい作品にはそれだけ慎重な視点が必要です。
ただ、それでも藤井風の1stと『BADモード』は入れるべきだと確信を持っています。これは10年後の批評に対する予言と言ってもいいですけど、この2枚は絶対J-Popの歴史を語る上で頻出になるはずですからね。『BADモード』なんて、当初『First Love』より上にしてやろうと思っていたくらいで。願わくば、10年後にこのランキングを改定する時に当たり前のようにこの2つの順位をジャンプ・アップさせられるようになってもらいたいものです。
近年の批評トレンドからの分析
ここからは2つほど、近年の批評ですごく大きな意味が出てきている視点から。まずは女性率です。こちらは100作品中22作品、ざっくり20%ですね。あくまでアーティスト名義の中に女性がいるかどうかという基準で線引きしてるので、『HORO』みたいなバックに女性が参加した作品はカウントしてません。
この数字も個人的には妥当な線かなと思っています。どうしたって20世紀くらいまでは国内外問わず音楽シーンって男性優位の時代が続いていたし、そこをフェミニズムの観点から男性の貢献を蔑ろにしてまで歪めたいとはまったく思わないので。
恣意的に増やそうと思えばいくらでも増やせますよ?それこそさっきも悩んだと言いましたけど、REBECCAや戸川純、他にもチボ・マットや川本真琴、アングラ系統だと少年ナイフとか……これらが今回のランキングに入っていたって納得度に変化はないとも思うんですけど、私の中で素直に100枚選んだ時に入ってこなかったのであれば無理する必要もないかなという判断です。
それよりはチャットモンチーだったり相対性理論、あと女性率には計上していないですが『アンハッピーリフレイン』における「シンガー」の初音ミク、そういった現行の女性活躍に直接的影響がありそうなところを拾った感じになりました。ここは選者の意識によってガラッと変わりそうな気はしますけどね。
これは最近のローリング・ストーン誌なんかに顕著なトレンドでしょうか。続いてはロック偏重からの脱却。
ただこれに関して、邦楽というフィールドで強く意識する必要はないと思ってます。だって何度も書いているように、日本っていつの時代もロックが元気な国ですからね。その活力はそのままランキングに反映させるべきなので。ただ、「邦楽名盤」でロックから100枚というのもちょっと視野が狭すぎる。ある程度ジャンルは広く取れるような意識は持ったつもりです。
ざっくりしたジャンルでいうと、ロック/ポップスを除けばエレクトロが一番多いのかな?YMOの2枚に始めて、電気グルーヴやレイ・ハラカミ、perfume、サカナクションみたいな並びがそこに該当しますし、大きな括りでいけばCorneliusの2作品もエレクトロ的です。本当はP-Modelかプラスティックス、それと教授のソロからも選びたかったんですけどね。
それとヒップホップ。佐野元春の『VISITORS』をこのジャンルに加えるかはさておき、それでもスチャダラパーやTha Blue Herb、BUDDHA BRAND、比較的新しいところならnujabesにPUNPEEもです。これもね、キングギドラやキミドリみたいな重要作品、あるいは大衆性の観点でDragon Ash辺りを入れてもよかったのかもしれない。
この辺のロック以外の作品に関して、選盤はかなり慎重になりました。「ポップかどうか」を重んじつつ、そのシーンの中できっちりリスペクトを集めているか。その2点を両立できて初めてリスト入りというイメージで選んでいます。ヒップホップに関してはTHA BLUE HERBとBUDDHA BRANDに関しては相当に硬派なんですけど、そこを補って余りあるレジェンドとしての風格を評価してのチョイス。
この辺のジャンル別のバランス関係って現行シーンをそっくりそのまま反映させるものになると思っています。なので、私が思う現代日本ポピュラー音楽のバランス関係は概ねこんな感じという理解をしてもらえると嬉しいですね。
「ランキングなんて無価値」という意見への反論
最後にこれは趣旨からちょっとズレちゃうんですけど、こういうランキング形式のもの、それが大手メディアであれ投票企画であれ個人作成であれ、必ず出てくる「そもそもランキングなんか何の意味もない」という意見。私はこの手の意見には頑なに反発していきたいと思っています。
まず第一に、私自身こうした名盤選やディスク・ガイドなくして今の音楽体験をできていないから。誰かのレコメンドがあるというのはそれだけで作品への導線になり得るし、そこに順位や体系があるというのは嬉しいことだという個人的な実感があるからです。これはあくまで、リスナーとしての初期段階にある人にとってですけどね。
それに、どうしたって邦楽のオールタイム・ランキングって洋楽より数は少ないでしょ?個人的に洋楽の体系的理解よりも、邦楽の方がずいぶん難儀しましたから。かつ、私が今までに見てきたもので心の底から同意できるものって今のところなくて。ゴリゴリの「はっぴいえんど中心史観」原理主義だと近年の充実を軽んじてしまうし、かといって投票企画だとどれだけ広く集計しても母集団のバイアスはかかってしまいます。
そのことを悪だとはまったく思わないし、当然の帰結ではあるんですが。ただ、そのうえで個人的に「これっきゃない」と思う序列を組み上げる作業はどうしてもしておきたかった。そしてそれは客観視に耐え得る批評としての強度が必要なものでもあります。そのために、この100枚に入れてない愛聴盤なんて山ほどあるし、逆に普段はあんまり聴かない作品なんてものもあのリストにはいくつもありますから。
そのうえで、聴かれるべきもの、邦楽において重要なもの、あくまでそこを主眼にしたランキングになるように努めました。で、その「べき」というのはただの主観だろという批判をなんとか退けるべく、さっきまで書いていたようなルールや基準を明確に設定しておいた訳です。
そして、私が作ったランキングにも当然脆さはあると思います。個人的には邦楽名盤選の模範解答にしか見えてないんですが、これは完全に作り手のエゴだと承知してますからね。しかもそういうの、案外1年後とかに見たら自分でも「は?」ってなっちゃったりしますし。
で、その脆さを読んでくれた方がそれぞれに指摘し、邦楽の歴史を各々の中でアップデートしていく。そんな作業をしてくれたらもう最高ですよね。百歩譲ってランキングに意味がなくとも、それを受けて音楽作品やその歴史に思いを馳せ、価値観を検証するという行為は極めて意義深いものですから。そんなことを思いながら、編集後記を結んでおきましょうか。
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