今回も1980年代洋楽史解説特集を進めていきます。本シリーズのバックナンバー、あるいは前シリーズにあたる1960年代編/1970年代編もあわせてお読みいただけるとより楽しめるかと。
本稿でも前回に続いて、1970年代と1980年代を接続しながら解説の導入としていきます。しかしながら、前回がニュー・ウェイヴという進歩的ムーヴメントについてであったのとは対照的に、今回は「オールド・ウェイヴ」と呼ぶべき旧来のロックにスポットを当てていきましょう。そしてその舞台も、イギリス中心だった前回からアメリカへと移っていきます。
「商品化」の進むオールド・ウェイヴ
ハード・ロックの新陳代謝
1970年代のロックをジャンル毎に分類した時、最もアメリカで支持を集めたのはハード・ロックでした。しかしこのジャンルを彩った数々のロック・バンドは、1970年代末からその勢いを失っていきます。
ブリティッシュ・ハード・ロックの世界では、レッド・ツェッペリンはドラマーのジョン・ボーナムの事故死を受けて1980年に解散。ブラック・サバスからはフロント・マンのオジー・オズボーンが脱退します。また、かつてディープ・パープルに所属したリッチー・ブラックモア率いるレインボーも、「三頭政治」と称された全盛期のバンド編成を司るロニー・ジェームス・ディオとコージー・パウエルが相次いでこの時期にバンドを離脱しています。
アメリカン・ハード・ロックはというと、シーンの代表格だったエアロスミスやキッスがドラッグの問題やバンド内での軋轢によって空中分解してしまいます。もっとも、アメリカではこの時期に天才ギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレン擁するヴァン・ヘイレンが登場していますし、必ずしもハード・ロックが衰退したとは言えない状況でもあるのですが。
また、イギリスにおいてもパンク・ムーヴメントに影響されたNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)が成立し、オーストラリアのAC/DCはメガ・ヒットを記録していきます。
こうした1980年代のハード・ロックの動向は今後セクションを1つ割く形で詳細に解説しますが、このハード・ロックの新陳代謝は本稿でも理解していただきたい点です。
「産業ロック」
こうした状況下で頭角を表したのが、ハード・ロック由来のパワーと巨大なスケール、そしてキャッチーなポップ・アピールを兼ね備えたバンド群です。
アメリカン・ハード・プログレッシヴというスタイルからキャリアを出発させたジャーニーや、映画『ロッキー』で使用された『アイ・オブ・ザ・タイガー』で有名なサヴァイヴァー、スーパー・グループとして知られたフォリナーらがその代表的な存在。
この文脈で、1980年代におけるプログレッシヴ・ロックについても触れておきましょう。ヨーロッパ、わけてもイギリスにおいて活発だったプログレッシヴ・ロックは、パンクによって前時代の遺物のレッテルを貼られその規模を縮小させていきます。
しかしジェネシスやイエスといったバンドは、メンバー・チェンジの後ポップスへと大きく方向転換することで1980年代にも商業的な成功を獲得しました。また、かつてイエスやキング・クリムゾンといったバンドで活躍した名うてのプレイヤーが揃い踏みしたエイジアも、プログレッシヴ・ロックの勢力圏からヒットを飛ばします。
こうしたバンドに共通したのは、オールド・ウェイヴに直接的な影響を受け、音楽的な革新に乏しいという堅調な性格。ニュー・ウェイヴが独創的な創作を模索する中、こうした音楽性は「ダイナソー・ロック(恐竜=大味で時代遅れなロック)」と揶揄され、一部から反感を買うことにも繋がります。あるいは日本では、渋谷陽一が命名したところの「産業ロック」という語彙の方が通りがよいでしょうか。
ここで、「産業ロック」と同一視する意図はないと先んじて断りを入れた上で、似た性質を持つジャンルとしてAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)についても言及します。
ジャズやR&Bに影響されたソフトなロックであるAORにも、大衆からの厚い支持、商業的成功、保守的な音楽性といった「産業ロック」との共通点が見られるのです。1970年代後半には既にチャートに登場したAORですが、こうした共通点を鑑みればこのセクションで紹介するのが妥当でしょう。
「産業ロック」に見る、「ポピュラー音楽の商品化」の予兆
さて、この「産業ロック」はアートとしてのロックを語る上で、しばしば仮想敵として疎まれる存在です。しかしながら、1980年代を俯瞰すればそこには見過ごしてはならない意義があると私は考えます。
それは、ロック、あるいはポピュラー音楽の「商品化」の傾向の一端を担う存在であるというもの。
1970年代編においても、私は「ロックの商業化」という表現を何度か持ち出しました。1960年代に表現としての地位を確立したロック音楽が人口に膾炙したことで、1970年代には商業としての規模をも獲得していった。この展開に反発するようにパンクは誕生したのですが、一方で「商業化」を歓待し、その性格を突き詰めることもごく自然な動きでしょう。
そして「産業ロック」はポップであることを厭わず、音楽性としての定型の中でヒットを獲得していきます。これはもはや「商業」という大きなスケールのトピックではなく、「商品」とでも表現すべき洗練と確立を果たしたものです。そしてこの「ポピュラー音楽の商品化」は、1980年代の「光」の中で大きな意味を持つ展開なのです。この主張は次のチャプター、そして次回の解説にも大いに関連するものとなります。
もう少し「産業ロック」擁護論を深めるのであれば、「産業ロック」が忌避されたのはあくまでそのアティチュードにおいてのみだという点にも触れねばなりません。先に触れた通り、セールスの上では「産業ロック」は確かな成功を得ているのですから。彼らが打ち出したポップネスは、決して軽薄ではなく音楽の魅力として本質的なものです。
そのことは奇妙にも、この現代において証明されることになります。サブスクリプション・サービスの普及後、ジャーニーの『ドント・ストップ・ビリーヴィン』は数多あるロック・クラシックの中でも最も再生された楽曲の1つとなり、TOTOの『アフリカ』はミーム的な側面もあったもののネット上でリバイバルされました。
このシリーズではあくまで音楽史を中心に議論を進めるので、彼らの音楽的充実に言葉を尽くすのは本意ではありません。しかしながら、音楽史の中で「産業ロック」を中立的に評価するならば、こうした部分にもスポットを当てる必要があると私は確信します。
MTVの設立が1980年代の「光」を定義した
「産業ロック」についての話題はこの辺りにしましょう。ここからは本稿のもう1つのトピックへと移ります。
1981年8月1日、この日はポピュラー音楽の通史においても極めて重大なイベントが起こった記念すべき1日です。そのイベントとは、MTVの設立。前回の「第二次英国侵略」に関しての解説でも名前を挙げたMTVですが、ここでその影響や重要性について深く考えていきたいと思います。
音楽を「観る」ものに変えたMTV
MTVの最大の意義、それはポピュラー音楽のプラットフォームがラジオからテレビへと移行した点にあります。換言すれば、それは音楽を「観る」ものに変えたということです。
ここで極めて象徴的な楽曲を紹介しましょう。イギリスのニュー・ウェイヴ・バンド、バグルスが発表したヒット曲『ラジオ・スターの悲劇』。MTVで初めて放送されたビデオ・クリップもこの曲のものです。
タイトルでもある”Video killed the radio star“、「ビデオがラジオ・スターを殺した」という一節がこのMTVの革新を端的に示しています。かつてラジオでヒットを飛ばしていたアーティストは、ビデオ時代の到来にアジャストできなければその存在感を失っていくことになるのです。
つまりこうです。これまでのポピュラー音楽において、ヒットの条件はラジオでのヘビー・ローテーションにありました。それゆえにコンパクトな楽曲が好まれ、『ボヘミアン・ラプソディ』のような長い楽曲はシングルに不向きとされた事実があります。
しかし、ビデオ時代にはそのヒットの条件は崩れ去ります。如何にして視覚的に大衆にアピールするか、そういったこれまでとは異なるキャッチーさが要求されるようになるのです。この変化の恩恵を受けたのが、前回触れたニュー・ロマンティックなのですが。
このことから、MTVの設立は音楽のあり方を決定的に変えてみせたと言うことができます。それは古くにはレコードの発明による音楽の「音」としての保存や、1960年代におけるザ・ビートルズによるポピュラー音楽の自作自演、あるいは同じくザ・ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で提示した「アルバム文化」にも匹敵し得る、強烈なパラダイムシフト。
特定のアーティストによる功績でないことから、この事実を高く評価する声は先に触れた例に比べて多くはありません。しかし、この価値観の転換を理解しなければ、1980年代の「光」を正しく見据えることはできないでしょう。何故なら、その「光」を支えた舞台こそがMTVなのですから。
MTVが進めた「ポピュラー音楽の商品化」
そして、「産業ロック」のチャプターで触れた「ポピュラー音楽の商品化」についても、MTVは大きな意味を持ちます。
すなわち、「産業ロック」があくまで音楽的な商品化を進めたのであれば、MTVはそこに映像的な商品化をも追加したのです。
前述の通り、ビデオ時代以前の音楽産業はラジオやレコードといった音楽そのものによって構築されていました。しかし、ビデオがヒットに欠かせないファクターとなって以降、ポピュラー音楽はそのプロモーションにこれまで以上の投資をしていきます。
話題を呼ぶための映像的に斬新なアイデア、それを実現させるための予算、それらがポピュラー音楽の世界に投じられ、華やかな映像と呼応するように音楽性も分かりやすくポップなものが増えていきます。それゆえに、しばしば1980年代は洋楽ポップスの全盛期として懐古されるのです。
しかしここで注意せねばならないのが、この「商品化」は必ずしも全面的に肯定できる動向ではないという点。
「商品化」はポップスの世界に「ヒットの様式」を与えてしまいます。音楽ジャンルのような志向によって生み出される自発的な様式ではなく、ヒットのための打算的なそれを。また、映像によってヒットが左右されるとなれば、そこに音楽性の介入する余地は必然的に小さくなります。
事実、1980年代にはヒット曲の粗製濫造が目立ちます。ビルボード・チャートを賑わせつつも、後続の音楽シーンになんら影響を与えずな終わった楽曲が。あえて手厳しく表現すれば、それはポピュラー音楽の堕落と呼ぶべき現象です。音楽は産業でありながら、同時に芸術としての高潔さを保たねばならないのですから。
華やかさを示す格好のフィールドでありながら、それは時に虚仮威しの「光」にも繋がってしまっていた。MTV、ひいては1980年代ポップスの功罪は、このシリーズにおいて絶えず意識しなければならないポイントの1つです。
まとめ
- 1970年代に活躍したハード・ロックのバンド群は1980年代までに衰退し、ジャンル内での新陳代謝が発生
- 「産業ロック」と呼ばれるキャッチーなロックのスタイルがチャート上で活況を見せる
- 1981年にMTVが設立され、ポピュラー音楽のあり方は大きく変貌
- MTVは1980年代のポップス・シーンを賑わせつつ、形骸化や粗製濫造を助長させることにも繋がる
今回の解説の概要は以上の通りです。
MTVに関しての議論では、音楽そのものについて言及する機会を得ることができませんでした。少々退屈なものかもしれませんが、しかしその意義を見つめないことには以降の解説に差し障りが生じてしまうがゆえの措置とご理解ください。それだけMTVは重要なゲームチェンジャーだったのです。
さあ、次回も引き続きMTVを軸に解説が進んでいきます。しかし、その内容は実際の音楽シーンを紹介するエキサイティングなものになるでしょう。ベストヒットUSAさながらに1980年代の大ヒットを次々に語る、そういったものに。
しかし同時に、それぞれのアーティストがどういった輝きを持っていたのか、その「光」には如何なる価値があるのか、そういった部分にも踏み込む重厚なものにもなるかと。それでは次回、§3.でお会いしましょう。
コメント
ごめんなさい! どうしても記事の内容で引っかかるところが!
「産業ロック」の命名者は渡部陽一さんではなく渋谷陽一さんではないですかね??
コメントありがとうございます。
ものすごく恥ずかしい指摘をされてしまいました……笑
はい、ご指摘の通り「産業ロック」の命名者は渋谷陽一氏です。私の完全なる勘違い、記憶違いでした。こっそりと訂正しましたが、自戒の意味を込めてご返信させていただきます。